上温湯隆に関係する人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 05:31 UTC 版)
ジェフリー・ムーアハウス(英語版) 1931年生まれのイギリスの作家。上温湯が2回目のアフリカ旅行(サハラ横断の冒険)を始める2年ほど前、北半球が冬になりサハラ砂漠が比較的涼しい1972年9月-1973年3月の6か月間にモーリタニアのアタールから、エジプトのカイロまでサハラ砂漠横断を試みている。このムーハウスの単独行に、上温湯は大きな影響を受けた。ムーハウスの横断は、アラブの現地遊牧民ガイドとラクダ5頭を連れてのものだった。旅の最後の480km余りは、ラクダを失い、徒歩でタマンラセットに到着した。しかし、病気と疲労により、アルジェリアのタマンラセットで旅を中断した。スタートから約3,500km地点であった。このサハラ横断の旅行記は『The Fearful Void』と題して1974年に出版されている。その後は、歴史に関する著作を多数著述、2009年、死去。 飯田望、児島盛之 当時同志社大学の学生で探検部に所属していた飯田望(大学4年)、児島盛之(大学2年)は、上温湯著『サハラに死す』に刺激されて、1978年、チャドのファダまでサハラ砂漠横断に挑戦した。上温湯と同様にモーリタニアのヌアクショットから旅を始め、マリを経て、ニジェールのビルマまで進むが、チャド内戦の報を受けて旅を断念した。約4,150km地点であった。上温湯の旅を踏襲したが、同志社大学探検部と連絡を取り合ったり、途中2度遊牧民ガイドを付けたり、ラクダを途中で乗り換えるなど、冒険に工夫をこらしていた。旅の内容は飯田望著『サハラ横断』に詳しい。マリのメナカで、上温湯を知るジャンダルム(憲兵)と出会うが、上温湯の母の依願状がないため、遺品の受け取りはできなかった。 紺野衆 1980年から1981年にかけて、ラクダを使いモーリタニア・ヌアクショットから、サハラ砂漠横断に挑戦したが、ニジェールのアーリットで断念した。途中、メナカで偶然、上温湯の墓を発見している。3600km単独行。 広木武夫 1984年にメナカを訪れ、上温湯の遺骨と遺品を持ち帰ることに成功した。長尾三郎が、別冊・小説現代(1985年)に、ノンフィクションとしてその様子をまとめている。
※この「上温湯隆に関係する人物」の解説は、「上温湯隆」の解説の一部です。
「上温湯隆に関係する人物」を含む「上温湯隆」の記事については、「上温湯隆」の概要を参照ください。
- 上温湯隆に関係する人物のページへのリンク