三浦皇統譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 06:15 UTC 版)
以下、三浦家の系図と三浦芳聖の研究に基づく皇統を列記する。年月日の表記はいずれも旧暦である。 東山天皇(尊良親王):在位・1336年(延元元年)10月9日 - 1337年(延元2年)2月5日1304年(嘉元2年)8月8日生 - 1337年(延元2年)3月6日崩(34才) 父・後醍醐天皇、母・二条為世の女・為子、「皇后」・西園寺公顕の女・藤原清子(後京極院御匣殿) 三浦が神界からの霊示を受け、神風串呂による調査研究を行った結果、1336年(延元元年)10月9日、比叡山に於て後醍醐天皇から譲位された。三浦は『太平記』に越前の国、金ヶ崎城落城時に多くの将兵が「殉死した」と書かれていると主張し、天皇であったことは間違いないとしている。 興国天皇(守永親王):在位・1337年(延元2年)2月5日 - 1368年(正平23年)3月23日1328年(嘉暦3年)9月生 - 1397年(応永4年)3月崩(70才) 父・東山天皇、母・藤原清子(後京極院御匣殿) 三浦家が伝承する系図には、後醍醐天皇から皇位を継承されたと記録されていた。三浦は守永親王は後醍醐天皇の猶子となり、越前の国、金ヶ崎城に於て東山天皇から譲位された。 小松天皇(興良親王):在位・1368年(正平23年)3月23日 - 1373年(文中2年)5月26日1334年(建武元年)3月14日生 - 1375年(天授元年)崩(42才) 父・宗良親王、母・狩野介貞長の女(駿河姫)、「皇后」・元子内親王(興国天皇第二皇女、小室門院) 三浦は興国天皇より譲位されたと主張している。 松良天皇(正良親王):在位・1373年(文中2年)5月26日 - 1410年(応永17年)1364年(正平19年)8月8日生 - 1417年(応永24年)5月24日崩(54才) 父・興良親王、母・興国天皇第二皇女・小室門院元子内親王、「皇后」長慶院法皇皇女綾子姫。 山梨県都留市法能の「富士の皇居」で誕生。1388年(元中5年)に足利義満軍の率いる15万の大軍の猛攻に遭い、富士の皇居が落城したため、遠州京丸へ落ちた。以後、遠州・三州各地を転々とし、1405年(応永12年)頃、愛知県豊川市萩町へ隠棲した。1410年(応永17年)「長慶院法皇」の崩御を知り、譲位。愛知県豊川市御油町西沢の萬松山大通寺薬師堂を開基、聖竜法皇となる。 大宝天皇(美良親王):在位・1410年(応永17年) - 1454年(享徳3年)1394年(応永元年)生 - 1481年(文明13年)3月15日崩(88才) 父・松良天皇、母・綾子姫(「長慶院法皇」皇女)、「皇后」・三浦佐久姫(建武の新政で活躍したという富士大宮司・三浦義勝の5代孫、木花佐久耶姫の再現という) 懸賞つきで探索する幕府の追跡をかわしつつ、各地を潜行したといい、1438年(永享10年)、岡崎市切越に隠棲したという。最後まで付き従った数少ない臣下らに支えられながら、皇威の回復を祈願して大般若経六百巻を念書するなど修行に専念する日々を過ごしたという。 1454年(享徳3年)に天照大御神の神勅に従い、三種の神器を地下深く埋蔵して現在の岡崎市牧平町大門に移住。「皇后」の姓を名乗って三浦藤太夫と称し百姓となった。 なお、三浦は南朝の天皇である長慶天皇(寛成親王)についても以下のように主張している。 寛成親王は南朝抗戦派として、1373年(文中2年)の小松上皇崩御に伴い、摂政に就任した。 松良天皇から太上天皇号(落飾して「長慶院法皇」)を受けた。 密かに富士の皇居へ移り、ここから東国武士に北朝打倒の大号令を発し、1385年(元中2年)からは側近の公卿らを従え高野山にのぼり戦勝祈願を込めた後、高野聖僧上人に扮して全国を行脚した。 南北朝合一の後、1409年(応永16年)秋、播磨国の城山で地元の武士らに急襲され、兵庫県加西市青野町の西山で没した。
※この「三浦皇統譜」の解説は、「三浦芳聖」の解説の一部です。
「三浦皇統譜」を含む「三浦芳聖」の記事については、「三浦芳聖」の概要を参照ください。
- 三浦皇統譜のページへのリンク