三河国吉田城代とは? わかりやすく解説

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三河国吉田城代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:29 UTC 版)

小原鎮実」の記事における「三河国吉田城代」の解説

三河国支配本格化させようとしていた駿河国守護今川義元は、天文15年11月1546年12月)に東三河戸田氏牧野氏奪い合っていた吉田城当時今橋城)を攻略、これを拠点として確保して城代には伊東元実、後に小原肥前守鎮実を置いた永禄3年1560年5月義元桶狭間の戦いにて織田信長勢により敗死すると、今川氏人質であった松平元康(後の徳川家康)が織田組み西三河岡崎城同県岡崎市康生町)で自立始めた。鎮実は新当主・氏真に従い続けたが、永禄4年1561年)、元康今川氏への調略によって、今川家臣の離反東三河でも相次ぐようになった今川氏派遣した登屋ヶ根城元岡城代糟屋善兵衛奉行飯尾連竜等の撤退により西三河での今川家影響力著しく低下していく。 その報復として氏真の命を受けた鎮実は、松平氏転属した東三河諸氏から差し出させていた人質11人から14人までの説が乱立)を城下吉田山龍拈寺同県豊橋市新吉町)口で処刑し一説には串刺し)、別地に葬った(その地は後に十三本塚と呼ばれたと言う)。また、離反した菅沼氏一門征伐し伊賀国忍者伊賀者)を用いて設楽郡野田城愛知県新城市)を攻略し城主菅沼定盈退散させた。鎮実率い征伐軍引き続き北進し、菅沼氏大谷城(おおやじょう)を攻囲した陥落には至らず野田城城代稲垣氏俊配置して撤退ある程度成果示した。 翌5年1562年)に、遠江国見付城の堀越氏の反乱鎮圧のために出兵中に同年6月2日三河国手薄になった隙に菅沼定盈によって夜襲受けた野田城陥落城代稲垣氏俊討死。以下、成島『改正三河後風土記』によると、永禄7年5月1564年6月)、鎮実は氏真の命で東三河諸氏人質吉田城取り入れるが、 戸田重貞計略をもって人質一部奪い返され、鎮実は二連木城攻め寄せ、重貞を討死させた。 永禄8年1565年)、鎮実の籠もる吉田城同県豊橋市今橋町)は松平家康包囲された。北の豊川対岸下地(しもじ)や東の二連木城や南の喜見寺砦(呉服山喜見寺、同県市花園町)を押さえられると、松平軍の和議案を受け入れ酒井忠次より人質受け取って開城退去した。これにより田原御油落城し、牧野氏などの諸氏降参したため、今川氏三河拠点消失した

※この「三河国吉田城代」の解説は、「小原鎮実」の解説の一部です。
「三河国吉田城代」を含む「小原鎮実」の記事については、「小原鎮実」の概要を参照ください。

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