三河国吉田城代
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三河国支配を本格化させようとしていた駿河国守護今川義元は、天文15年11月(1546年12月)に東三河で戸田氏と牧野氏が奪い合っていた吉田城(当時の今橋城)を攻略、これを拠点として確保して城代には伊東元実、後に小原肥前守鎮実を置いた。 永禄3年(1560年)5月、義元が桶狭間の戦いにて織田信長勢により敗死すると、今川氏人質であった松平元康(後の徳川家康)が織田と組み、西三河の岡崎城(同県岡崎市康生町)で自立を始めた。鎮実は新当主・氏真に従い続けたが、永禄4年(1561年)、元康の今川氏への調略によって、今川家臣の離反が東三河でも相次ぐようになった。今川氏の派遣した登屋ヶ根城元岡崎城代・糟屋善兵衛や奉行・飯尾連竜等の撤退により西三河での今川家の影響力が著しく低下していく。 その報復として氏真の命を受けた鎮実は、松平氏に転属した東三河の諸氏から差し出させていた人質(11人から14人までの説が乱立)を城下の吉田山龍拈寺(同県豊橋市新吉町)口で処刑し(一説には串刺し)、別地に葬った(その地は後に十三本塚と呼ばれたと言う)。また、離反した菅沼氏一門を征伐し、伊賀国の忍者(伊賀者)を用いて設楽郡の野田城(愛知県新城市)を攻略し城主・菅沼定盈を退散させた。鎮実率いる征伐軍は引き続き北進し、菅沼氏の大谷城(おおやじょう)を攻囲したが陥落には至らず、野田城に城代・稲垣氏俊を配置して撤退。ある程度の成果を示した。 翌5年(1562年)に、遠江国見付城の堀越氏の反乱鎮圧のために出兵中に、同年6月2日、三河国が手薄になった隙に菅沼定盈によって夜襲を受けた野田城が陥落、城代・稲垣氏俊は討死。以下、成島の『改正三河後風土記』によると、永禄7年5月(1564年6月)、鎮実は氏真の命で東三河の諸氏の人質を吉田城に取り入れるが、 戸田重貞の計略をもって人質の一部を奪い返され、鎮実は二連木城に攻め寄せ、重貞を討死させた。 永禄8年(1565年)、鎮実の籠もる吉田城(同県豊橋市今橋町)は松平家康に包囲された。北の豊川対岸の下地(しもじ)や東の二連木城や南の喜見寺砦(呉服山喜見寺、同県同市花園町)を押さえられると、松平軍の和議案を受け入れ酒井忠次より人質を受け取って開城退去した。これにより田原や御油も落城し、牧野氏などの諸氏も降参したため、今川氏の三河拠点は消失した。
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