三河国平定とは? わかりやすく解説

三河国平定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:43 UTC 版)

伊奈城」の記事における「三河国平定」の解説

東三河攻め 1529年享禄2年)、三河平定推し進める松平清康徳川家康祖父)は東三河進攻して吉田城豊橋市)へ迫った伊奈城本多正忠姻戚関係であった吉田城牧野氏との関係を絶ちいち早く清康の陣に参。夜陰紛れて吉田川渡り吉田城東門打ち破って城内突入し松平勢を導き入れたという。 田原攻め 吉田城攻略した清康は休む間もなく軍を田原城攻略向けた。しかし、田原城主の四代目戸田宗光は、戦わず清康の下へ降った。この時、宗光は清康一字貰い受けて「戸田康光」と名乗る。この田原攻めでは正忠らの本多勢が先導役を果たしたとされている。 この後清康吉田城凱旋し東三河の諸豪族服従受けて本拠地岡崎へ戻るが、田原城から吉田城への凱旋途中伊奈城立ち寄って勝利祝宴開いたその際に正忠は、城内にあった「花ヶ池」の水葵に肴を盛って差出したという。 清康喜悦して、 「立葵紋は正忠の家紋なり、此度の戦に正忠最初に味方となりて勝ち戦となる。吉例なり、賜らん」 と本多家の「立葵紋」を所望したという。このことにより、正忠は清康への心服の情が一層深まったとされる。 後に立葵紋は松平家の紋となり、家康の代に「三葉葵紋」となったとされる

※この「三河国平定」の解説は、「伊奈城」の解説の一部です。
「三河国平定」を含む「伊奈城」の記事については、「伊奈城」の概要を参照ください。

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