三河在住期
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弘治2年(1556年)2月、松平忠茂は、当時駿府で今川氏の下にあった宗家当主・松平竹千代(徳川家康)の名代として日近城の奥平貞直(日近久兵衛尉)を討ちに出陣し、23歳の元重もこれに従った。しかし、城兵の矢に当たり主君・忠茂は倒れてしまい、同僚の松井八右衛門(忠勝)がその場に留まり防ぎ、元重は松井善兵衛(重正)・平岩弥之助(基親)と共に忠茂を肩に負って退却した。すると日近の城兵は討って出るや競って追いすがり、保久(岡崎市保久町)から大林(岡崎市鍛埜町大林付近)の辺に至ると忠茂は既に絶命していたので亡骸を藪に隠すと、元重らは逆に取って返してようやく敵兵を退けた。 今川義元は忠茂の遺児の亀千代丸(松平家忠)の傳かつ陣代として、先代に引き続き松井忠次を付属させた。元重も亀千代丸に仕えて忠次の麾下に属した。 永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで義元が敗死した時には、元重は松平元康(徳川家康)に従って大高城内にいた。しかし、元康は義元戦死の真偽を推し量りかねていたので平岩元重・同弥之助・服部久左衛門等を周囲に遣わして探索をさせた。その夜は風雨が強く咫尺を弁じない程であった。暗闇を衝いた探索の結果、今川方の戦死者の遺骸を発見したがその頭はみな東を向いていたと云う。これにより今川方の敗北を知り、大高城に戻り元康に報告した。そして元康は自軍の岡崎城入城を決断したという。 永禄4年(1561年)、東条城の吉良義昭攻めに頑強な抵抗を受けた徳川勢であったが、その元凶である吉良家の家老富永忠元を討つために、本多広孝、松井忠次らは平岩元重・松井光次ら麾下の部隊を引率して参陣。藤波畷に富永忠元を誘い出した。出陣に先立ち、本多広孝は今日こそ富永を討つまでは結びを解かずと鎧の上帯の緒を元重に切らせたと富永氏所伝は記す。果たして、富永忠元は本多広孝主従に藤波畷で討ち取られた(藤波畷の戦い)。 永禄6年(1563年)、家康は三河一向一揆に同調した吉良義昭を三河東条城に討つ。この戦に元重は家忠に従って城の搦め手を攻め、槍を交えて敵の首級を挙げた。帰還後、その功を賞して家康は元重に酒を下賜し、また自分の佩刀を与えた。
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