三河在住期とは? わかりやすく解説

三河在住期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 01:59 UTC 版)

平岩元重」の記事における「三河在住期」の解説

弘治2年1556年2月松平忠茂は、当時駿府今川氏の下にあった宗家当主松平竹千代徳川家康)の名代として日近城の奥平貞直(日近久兵衛尉)を討ち出陣し23歳の元重もこれに従った。しかし、城兵の矢に当たり主君・忠茂は倒れてしまい、同僚松井右衛門(忠勝)がその場留まり防ぎ、元重は松井善兵衛(重正)・平岩弥之助(基親)と共に忠茂を肩に負って退却した。すると日近城兵討って出るや競って追いすがり、保久(岡崎市保久町)から大林岡崎市鍛埜町大林付近)の辺に至ると忠茂は既に絶命していたので亡骸に隠すと、元重らは逆に取って返してようやく敵兵退けた今川義元は忠茂の遺児の亀千代丸松平家忠)の傳かつ陣代として、先代引き続き松井忠次付属させた。元重も亀千代丸仕えて忠次麾下属した永禄3年1560年5月桶狭間の戦い義元敗死した時には、元重は松平元康徳川家康に従って大高城内にいた。しかし、元康義元戦死真偽推し量りかねていたので平岩元重・同弥之助服部左衛門等を周囲遣わして探索をさせた。その夜風雨強く咫尺弁じないであった暗闇を衝いた探索結果今川方の戦死者遺骸発見したがその頭はみな東を向いていたと云う。これにより今川方の敗北知り大高城戻り元康報告した。そして元康自軍岡崎城入城決断したという。 永禄4年1561年)、東条城吉良義昭攻め頑強な抵抗受けた徳川勢であったが、その元凶である吉良家家老富永忠元を討つために、本多広孝松井忠次らは平岩元重松井光次ら麾下部隊引率して参陣。藤波畷に富永忠元誘い出した。出陣先立ち本多広孝今日こそ富永を討つまでは結びを解かずと鎧の上帯の緒を元重に切らせたと富永所伝は記す。果たして、富永忠元本多広孝主従藤波畷で討ち取られた(藤波畷の戦い)。 永禄6年1563年)、家康三河一向一揆同調した吉良義昭三河東条城に討つ。この戦に元重は家忠に従って城の搦め手攻め交えて敵の首級挙げた帰還後、その功を賞して家康は元重に酒を下賜し、また自分佩刀与えた

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