三承工業の設立
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27歳となった2006年には、三承工業株式会社を設立、代表取締役に就任した。当初は土木、建設業を主としていたが、次第に建築、ハウスメーカーと業務の幅を拡大していくこととなる。 三承工業は、ブラック企業そのものだった。長時間残業、事実上存在しない有給休暇、横行するパワハラ・モラハラ。男性従業員しかいない環境で、一方的な押し付けをスタッフに強要した。従業員への過重な負担は、モチベーションを下落させ、コミュニケーションも希薄にさせた。連携不足は発注ミスや納期遅れを生む。諍いが絶えず、怒号が鳴り響く職場。生産性の低さに繋がり、業績低迷に陥った。自身も骨身を惜しまず働いたが、売上3億円、借金3億円の抜けられないループが襲い、過労が原因で脳梗塞を発症した。(その時の後遺症で、今も右目の視野の半分が見えないという) 2008年に岐阜青年会議所に入所。当初は、業種の枠を越えた経営者との意見交流や、同業者との専門的な情報交換に勤しむほどであったが、2012年に青少年心身育成委員会の委員長に就任したことがきっかけで、青年会議所活動に積極的に参加することとなる。 「青年会議所は社会課題解決をする団体である」と気づくと、有事の際に備える風土作りのため、地区の子供たちと共に地域を回り、子ども110番シールを岐阜市内に拡める「安全安心マップ」や、100組の親子を招き、子どもが自然と感謝を伝えられる環境を作る「ありがとうを育てる教室」を企画した。また、東京青年会議所が中心となり全国で行われている「わんぱく相撲大会」では、自身が小学4年生の頃に準優勝を収めていたこともあり、委員長として関わりを持てたことに運命めいたものを感じたという。
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