三宿神社の建立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 07:24 UTC 版)
多聞寺は明治初期に廃仏毀釈の余波を受けて廃寺となり、その跡地の一部を使って1885年(明治18年)に三宿神社が建立された。これは村の鎮守が必要になったための措置で、神社の由来には、(寺のままでもよかったのに)なぜ神社が鎮座することになったのか由来は不明、と書かれている。 多聞寺境内にあった毘沙門堂の前に拝殿を新築して「三宿神社」と名付けたものであった。東京府に祭神を毘沙門天(=多聞天)として申告したところ許可が下りず、改めて大物主命を祭神として申告しなおしたという。現在残っている当時の申請書には「毘沙門天」と書かれた部分に線引きがされ、その横に「大物主命」と書かれている。この訂正は申請書を持参した村人の目の前で行われた、と伝わる。他社にも類例があるが、明治新政府の意向により、本来は外来の神である毘沙門天ではなく、国産の神である大物主を祀らせた、とする説がある。ともあれ、結局祭神は毘沙門天を祀ることになったという。当時の申告によれば、社務所は400坪余り、東京府までの距離2里15町(約10キロメートル)、総代4軒で所在地は三宿村字北宿379番地であった。戦後の記録では祭神は「倉稲魂命」となっている。実際に境内には稲荷社もあるが、この時点でもまだ「毘沙門天」を祀ることが許されていない。大正12年(1923年)に大人神輿が製作されているが、本来その年9月の祭礼に間に合わせ、注文していた浅草の神輿店から納められることになっていた。しかし神輿の完成を聞いた氏子たちが浅草まで出かけ、8月中には早々にこれを三宿に引き取ってきて喜んでいた。9月1日に発生した関東大震災により浅草一帯は壊滅したが、よってこの神輿は無事であった。さらにこの神輿は昭和20年(1945年)5月のこの辺りに対する米軍の空襲も逃れた。ただし数年前に建てた社殿は消失している。 村の中心部は大山街道が通る字本宿と南宿付近であり、三宿神社が建てられた時期の字北宿付近に民家は1軒もなかった。神社前を流れる烏山用水沿いは田んぼが広がり、多聞寺橋付近には堰が設けられていた。近在の農民たちは、この堰に毎月1日と15日に餅を供えていたという。社殿は第2次世界大戦の戦災に遭って焼失したが、その際に毘沙門天像は持ち出されており無時で、現在も祀られている。1949年(昭和24年)に郊外の元・軍需工場から不要になった社殿を譲り受け、失った本殿は再建された。その後拝殿は1967年(昭和42年)に建築された。
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