三好一族の重鎮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:11 UTC 版)
生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛(三好伊賀守)も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)、江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。 天文19年(1550年)、京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。 天文21年(1552年)、長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)、有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城7つを落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野元秀討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。 同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると、6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。 永禄4年(1561年)、長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際、接待役の1人を務めている。 また、三好祐長(三好左衛門尉)に代わって、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近・申次として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。永禄4年(1561年)の足利義輝の三好邸御成の際の席次は「細川氏綱、長慶、義興、松永久秀、長逸、政生(三好宗渭)、息子の長虎、三好帯刀左衛門尉であり、長逸・長虎親子の地位の高さがうかがえる。
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