三好三人衆と松永の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:29 UTC 版)
こうして一乗院覚慶(義秋)が次期将軍に向けて着々と手を打っていく間、三好家中では分裂が生じていた。事件から半年後の永禄8年11月、河内飯盛山城に入った三好長逸・三好宗渭・石成友通は、若年の当主義継に迫り、覚慶を逃した責任などを追及して松永久秀を失脚させた。そして三好一門の長逸・宗渭に加え久秀に替わって家臣を代表する地位に上った石成とが一体となり、以後家中の実権を掌握する(三好三人衆の成立)。事実上の阿波国主三好長治(実休の子)を補佐する三好康長(義継・長治の大叔父)もこれを支持した。 大和では興福寺衆徒であった筒井氏が戦国大名化していたが、久秀が筒井氏の所領と中世を通じて興福寺が保持してきた大和守護の地位を奪い取った関係から、三人衆は筒井順慶と興福寺に久秀討伐を持ちかけて秘かに手を結んだ。かくして12月に三人衆の軍は大和に侵攻を開始し、筒井氏と共同して久秀を多聞山城(現在の奈良市法蓮町)に包囲した。だが城は強固で松永軍の士気は高く、翌年2月には筒井軍を打ち破った。三好氏家臣を含む畿内の諸城主には久秀に与する者も多かった。久秀は城を息子の久通に任せると5月に摂津野田(現在の大阪市福島区)まで進撃し、義秋を支持する河内の畠山氏と共同して和泉堺において三人衆方と戦ったが、大敗を喫し行方知れずとなった。
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