ロースクールを落第後、パリへ、そして職業作家へ
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「モーリス・ルブラン」の記事における「ロースクールを落第後、パリへ、そして職業作家へ」の解説
当時、ルブランはある恋愛ごとで後ろ指をさされ、ルーアンに居づらくなっていた。一方で、しばしば訪れていたパリでは一歳年下の寡婦マリー・ラランヌと知り合い、恋愛関係を結ぶに至っていた。田舎に耐えられなくなり、文学的成功も夢見ていたルブランは、ロー・スクールへの通学を口実として1888年の末にパリのモンマルトルのカレ6番地へと居を移す。生活資金は1891年に全額支払われる予定であった母親の遺産がら捻出され、1888年12月29日には父より2万フラン、1889年から1890年の間には約7万フランを受け取っている。 1889年1月10日、マリー・ラランヌと結婚。ただし当時の風潮から結婚式は行わなかった。またこの頃、「文芸酒場」として名を成し始めていたキャバレー「黒猫(シャ・ノワール)」に足繁く足を運び、ルネ・モロやモーリス・ドネー(英語版)等多くの文人・芸術家たちと交友した。結婚後、しばらくルブランはノルマンディを中心とした生活を送った。 兵役の再訓練は、妻マリーの妊娠を口実に1890年の秋に延期した。この結果、当時パリを襲ったインフルエンザの影響から幸運にも逃れられることができた。1889年11月28日、ニースにて長女マリー・ルイーズが誕生。この頃の生活拠点はニースではマセナ広場近辺のアルベルティ通り18番地のヴィラ・ラランヌ、パリでは8区、クラベロン通りであった。 1890年3月、リュドヴィック・バシェ美術出版社の「挿絵入り雑誌(ルヴェ・イリュストレ)」において短編「救助」にて商業デビューを果たす。同作は4月3日にルネ・モロが編集長を務める「挿絵入り盗人(ヴォルール・イリュストレ)」誌にも掲載される運びとなる。9月22日から11月20日までヴェルサイユの第11連隊に原隊復帰、伍長階級として再訓練を受ける。11月、サン・ジョセフ通りのエルネスト・コルブ社から短編集「Des couples」を自費出版。「ギ・ド・モーパッサン先生に捧ぐ」との献辞が記されていた。しかしながら売上は惨憺たるもので、後にルブランは「800フランをかけて1000冊刷ったのに3、40冊しか売れなかった」とぼやいている。 11月23日にフロベールの記念碑の落成式がルーアンの実家の付近にあるソルフェリーノ庭園で行われることを知ったルブランは、パリへの帰路の列車で、ギ・ド・モーパッサン、エドモン・ド・ゴンクール、エミール・ゾラ、ギュスターヴ・トゥードゥーズ(フランス語版)が乗車するコンパートメントに潜り込み、「Des couples」の書評を乞おうと試みるものの、当然のことながら彼らは除幕式で疲弊しており、到底書評を願える空気ではなかった。この件はルネ・モロが「シャンピモン」の筆名にて「挿絵入り盗人」誌が記事にし、同時に「Des couples」への好意的な書評を掲載している。 1891年の夏にはヴォコットに滞在、エトルタ近郊に所在するモーパッサンの別荘「ラ・ギエット荘」を訪れたという話を友人にしているが、モーパッサンが最後にここを訪れたのは1890年の夏であるため、虚言の可能性が著しく高い。
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