ルートヴィヒ2世の招き
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「リヒャルト・ワーグナー」の記事における「ルートヴィヒ2世の招き」の解説
ザクセンでの追放令が取り消し後の1864年、ワーグナーに心酔していたバイエルン国王ルートヴィヒ2世から突然招待を受ける。しかしそれを非難した宮廷勢力や、噂となっていたリストの娘で指揮者ハンス・フォン・ビューローの妻だったコジマとの仲を王も快く思わなかった。翌年スイスへ退避し、ルツェルン郊外トリープシェンの邸宅に住んだ。 コジマは少女時代からワーグナーの才能に感銘を受けていたが、ワーグナーの支持者であったビューローと結婚し、2人の子を儲けていた。ところがこのころワーグナーと深い仲となり、ついにワーグナーの娘イゾルデを産む(2人とも離婚していない)。1866年ワーグナーの正妻ミンナが病死。1870年コジマはビューローと離婚してワーグナーと再婚した。そしてビューローはワーグナーと決別し、当時ワーグナー派と敵対していたブラームス派に加わった。 1865年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世のために『パルジファル』を書き、「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ。同1865年9月11日の日記では「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と書いた。ワーグナーは『パルジファル』にあたって、大ドイツ主義者の聖書学者グフレーラーの『原始キリスト教』に影響を受けた。 1867年にワーグナーは、フランス文明は退廃的な物質主義であり、優美を礼儀作法に変形させ、すべてを均一化させ死に至らしめるものであり、この物質的文明から逃れることができるのがドイツであり、古代末期にローマ帝国を滅ぼして新生ヨーロッパを作ったゲルマン民族と同じ国民である、と論じた。 1867年には『ニュルンベルクのマイスタージンガー』が完成し、1868年6月21日にはビューローの指揮によってミュンヘン宮廷歌劇場で初演された。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられた。しかし、この作中でユダヤ人は出てこない。 1869年に北ドイツ連邦で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、1871年にドイツ帝国全域で施行されると、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しなかった。他方でユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を軽率な国家権力として批判した。またワーグナーはヴィルヘルム・マルやオイゲン・デューリングの反ユダヤ主義は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年) を愛読した。 『ジークフリート牧歌』は、コジマと子供たちのために密かに作曲し、1870年のコジマの誕生日に演奏したものである。現在でも歌劇以外の作品としては特に有名。 1870年の普仏戦争の開始に、ワーグナーは著書『ベートーヴェン』で、フランス近代芸術は独創性を完全に欠如させているが、芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行(モード)の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じた。
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