ル・マン24時間挑戦と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:26 UTC 版)
「日産・VRH35」の記事における「ル・マン24時間挑戦と挫折」の解説
日産は1990年のル・マン24時間レース完全制覇のために、10台ものマシンをル・マン24時間に送り込み、そして1,200馬力以上(最高回転数9,500rpm、圧縮比7.6、ブースト2.0バール)の出力を誇る予選用スペシャルエンジンも用意した。これは当時、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)の監督をしていた生沢徹から林に対して依頼があり製作された。しかし、準備期間の不足などにより1基しか準備できなかった。 林はこれをニスモのマシンに積み、星野一義の予選スーパーラップ用として使って欲しいと考えていたようだ。というのも当時、日本に出稼ぎに来ていた外人レーサーの間では星野はある意味、伝説的な存在となっていたためだ。「日本にはホシノというとんでもなく速いオヤジがいる」と彼等は言っていたと伝えられている(後にエディ・アーバインがF1初優勝時に同様のコメントを述べている)。その星野に、このエンジンでポールポジションを取らせれば「伝説の日本人レーサーがルマンで牙を向いた」と最高の演出になると考えられた。 そこでまずはニスモ側が使用の希望を聞いたのだが、彼等はその意味を理解せず希望もしなかった。また、アメリカから参戦したエレクトラモーティブのドン・デベンドーフにも存在が伝えられた。ドン・デベンドーフも「教えてくれてありがとう。しかしうちはスペアカーもないし、必要ないよ」と言ったと伝えられている。こうして1基だけ用意された予選用スペシャルスペックのVRH35Zは、実際に同エンジンを使用したニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)チーム以外にその存在がほとんど秘密になっていたため、日産のチーム間の不協和音は増すことになる。 結果的に日産勢は、予選2日目はマーク・ブランデルらが乗る3号車のR90CKが、前日を6秒も上回る3分27秒02で日本車初のポールを獲得し、決勝では深夜から朝まで首位を快走するも、ミッショントラブルや燃料タンクからのガソリン漏れ、さらにはショックアブソーバーが根元から折れると言う珍しいトラブルも発生し、次々と脱落する予想外の展開になった。結果ニスモから参戦した日本人トリオ(星野一義・長谷見昌弘・鈴木利男)による総合5位獲得(当時日本車、日本人史上過去最高)にとどまった。このレースではニスモチームの23番車(R90CP)が直線最高速度366km/hを記録、序盤のトラブルで出遅れたNPTIチームの84番車(R90CK)が本戦ベストラップタイムを記録している。
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