ル・アーヴルとは? わかりやすく解説

ル・アーヴル(少年時代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:30 UTC 版)

クロード・モネ」の記事における「ル・アーヴル(少年時代)」の解説

1840年11月14日パリ9区ラフィット街(英語版)で、父アドルフと母ルイーズとの間の二男として生まれた父親職業ははっきり分かっていない。出生時フルネームは、オスカルクロード・モネ(Oscar-Claude Monetであったが、のちに本人クロード・モネ名乗っている。 1845年ごろ、一家ノルマンディー地方セーヌ河口の街ル・アーヴルに移住した。ここでは、父の義兄ジャック・ルカードルが富裕な雑貨卸業営んでいた。モネは、少年時代大半をル・アーヴルで過ごすことになる。これ以降も、モネ生涯のほとんどをセーヌ川沿いの町で過ごすことになり、のちに自ら「セーヌ。私は生涯この川を描き続けたあらゆる時刻に、あらゆる季節に、パリから海辺まで、アルジャントゥイユポワシーヴェトゥイユジヴェルニールーアン、ル・アーヴル……」と回想している。 1851年4月1日、ル・アーヴルの公立中学校入学したモネは、学校抜け出して外で遊び回るのが好きな少年であった。彼はのちに、次のように回想している。 私は生まれた時からきかん坊であった誰も、私をどのような規律にも従わせることはできなかった。私が学んだわずかなことは、みな独り学んだのだ。……外には親しげ太陽輝き美しい海が広がっていて、澄んだ空気の中で海辺走り回ったり、水の中飛び込んだりできるというのに、4時間もじっと座っていることなど、とても私にはできなかった。 モネ少年のころから絵画巧みで、10代後半のころには自分描いた人物のカリカチュア戯画)を地元文具店の店先置いてもらっていた。カリカチュア注文を頼む者も現れ最初10フラン、のちに20フラン引き受けたデッサン教師ジャック=フランソワ・オシャール授業受けている。1857年1月28日母親死去したモネは、同じころ学業放棄したが、叔母マリー=ジャンヌ・ルカードルが彼をアトリエ入れデッサン勉強続けさせた。 1858年ごろ、モネ描いていたカリカチュアが、ル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、2人知り合ったブーダンは、それまでアトリエ制作するのが当たり前だったキャンバス戸外持ち出し陽光の下で海や空の風景描いていた画家であったブーダンから、カリカチュアばかり描くのをやめ、油絵勉強しよう誘われたことから、モネ油絵取り組み始め画家としての一歩踏み出したブーダンとともにル・アーヴル北東ルエルフランス語版)に赴いて制作し油絵ルエル眺め』をル・アーヴル市展覧会出品した戯画、1855 - 56年ごろ。61.2 × 45.2 cmシカゴ美術館。 『ルエル眺め1858年油彩キャンバス46 × 65 cm丸沼芸術の森コレクション

※この「ル・アーヴル(少年時代)」の解説は、「クロード・モネ」の解説の一部です。
「ル・アーヴル(少年時代)」を含む「クロード・モネ」の記事については、「クロード・モネ」の概要を参照ください。

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