ユーロコミュニズムと歴史的妥協
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 09:24 UTC 版)
「イタリア共産党」の記事における「ユーロコミュニズムと歴史的妥協」の解説
1973年10月には、貴族階級出身のエンリコ・ベルリンゲル書記長の主導により、党綱領から「マルクス・レーニン主義」や「プロレタリア独裁」、「暴力的革命の達成」を放棄するなど独自の穏健化路線を取ることで、国民の間に蔓延する共産主義と極左に対する恐怖心を和らげることを目指した。 さらにベルリンゲル率いる主導部は、共産主義がその存在を否定するキリスト教を教条とするキリスト教民主主義との協力路線を打ち出し、「歴史的妥協」政策による連立政権の樹立を図る事となる。 また、ソ連による1968年のチェコスロヴァキア侵攻、1980年のアフガニスタン侵攻を公然と非難する上に、ドイツ社会民主党や社会主義インターナショナルに接近するなど、ソ連と距離を置きつつ独自の政策を進める「ユーロコミュニズム」路線を推進し、1975年に行われた議会選においては得票率が30パーセント台に伸び、首都のローマやボローニャ、フィレンツェをはじめとする地方自治体の長を数多く輩出し、世界各国から多くの注目を浴びた。 しかし、「歴史的妥協」政策による勢力拡大は一時的に支持者を伸ばすことに成功したものの、冷戦下のイタリアにおいて、キリスト教民主主義内の右派やカトリック教会、大企業や労働組合、さらに「容共政権」の成立を嫌ったアメリカ合衆国の意を受けた右派から、イタリア共産党の独自路線に強い不快感を示したソ連や、共産主義の原理原則に忠実な党内左派に至るまで様々な勢力による思惑、利権が入り混じったこと、さらに旗振り役のベルリンゲル(ベルリングェル)が1984年に急死したことなどから結局成功しなかった。 また、このような共産党の勢力拡大は、イタリアの左傾化を警戒するアメリカのみならずマフィアやイタリア軍部内の右派をも強く刺激し、その結果、ネオファシスト系の団体や「ロッジP2」が関連した、左翼テロによる仕業と見せかけることを目的とした「ボローニャ駅爆破テロ事件」をはじめとする様々な極右テロを引き起こすことにつながった。イタリア共産党と同様に純然たるマルクス・レーニン主義を掲げていたイタリア社会党でも共産党の躍進を嫌ったベッティーノ・クラクシを党首とする右派が主導権を握って右旋回を行い、中道路線に修正した。これにより、社会党は1980年代からは大連立により政権に参加するようになったが、この結果政党同士の馴れ合いが横行するようになったイタリア政界では、冷戦終結後の1990年代にタンジェントポリと呼ばれる大規模な汚職が発覚することとなった。
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