ユニオンとリーグの分裂
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「ラグビーユニオンの歴史」の記事における「ユニオンとリーグの分裂」の解説
「ラグビーリーグの歴史」も参照 ヨークシャーは1879年にアマチュアリズムのルールを開始したと考えられている。ヨークシャーの代表はランカシャーの代表と共に1886年にRFUの初のアマチュアルールを定式化したとされている。通説にもかかわらず、これらの北部の団体はアマチュアリズムの強力な支持者であり、ベールで隠されたプロフェッショナリズムに対する幾多の反対運動を率いた。しかしながら、試合のために仕事を休んだ選手が補償を受け取るべきかという休業補償問題に関する論争をめぐって対立が起こった。北部のクラブは重労働者階級であり、したがって選手の大部分は労働契約によって試合に出られないか、ラグビーをプレーするために賃金を諦めなければならなかった。1892年、ブラッドフォードとリーズ(どちらもヨークシャーにある)のラグビーフットボールクラブが、仕事を休んだ選手に対して補償を行ったことで、プロフェッショナリズムの罪に問われた。しかし、これらは北部の団体に向けられた初めての申し立てでもなく、南部のクラブが同様の状況に直面した前例がないわけでもなかった。RFUは、これらの休業補償がプロフェッショナリズムへの道であることを懸念した。 1893年、ヨークシャーのクラブは、RFUの委員会における南部のクラブからの代表者の数が過剰であり、北部の会員の出席が困難な時間にロンドンで委員会が開催された、と訴え出た。言外の含みとして、これがイングランドのラグビークラブの多数派を成す北部のクラブにとって不利益となるRFUの「休業補償」問題に関する決定に影響した、と彼らは主張していた。1888年には北部イングランドの12のアソシエーション・フットボール(サッカー)クラブから成るプロフットボール・リーグが結成されており、このことが北部ラグビーの当局者に独自のプロリーグを設立する着想を与えていたかもしれない。 1895年8月29日、ハダーズフィールドにあるジョージ・ホテル(英語版)で開かれた会合で、ヨークシャー、ランカシャー、チェシャーからの20クラブがRFUから脱退し、北部ラグビーフットボール連合を結成することを決定した。北部ユニオンは後の1922年からはラグビーフットボールリーグとして知られている。1908年、オーストラリア、シドニーの8クラブがユニオンから離脱し、ニューサウスウェールズ・ラグビーリーグ(英語版)を結成した。支払いに関する論争は当時サッカーとクリケットにも影響を与えた。サッカーとクリケットは妥協案を成立させなければならなかった。ラグビーの姿勢が最も急進的だった。アマチュアリズムは厳格に実施され、報酬を受け取ったあるいはラグビーリーグでプレーした選手は追放された。ユニオンが選手への支払いを合法化し、リーグの試合で(アマチュアレベルでも)プレーした選手がユニオンの試合でプレーすることを認めたのはこの1世紀後である。
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