ヤーライ式流線型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 01:44 UTC 版)
「タトラ (自動車)」の記事における「ヤーライ式流線型」の解説
19世紀末の速度記録車両には既に魚雷形などの流線型車体が出現しているが、流体力学を意識して設計された流線型自動車の出現は、第1次世界大戦後のことである。 1921年に航空機設計者だったエドムント・ルンプラー(Edmund Rumpler, 1872年 - 1940年)が開発した流線型車「トロップフェンヴァーゲン」(Tropfenwagen)は、飛行船のゴンドラのような不格好なスタイルで、注目は集めたものの成功しなかった(水滴形の流線型を指向したが、平面的な発想ゆえに車体側面の空気抵抗しか考慮されていなかった)。 その後の1923年以降、ハンガリー出身でツェッペリン社の研究者だったパウル・ヤーライ(Paul Jaray, 1889年 - 1974年)によって、より現実的な流線型車体が考案された。 ヤーライの提唱した流線型自動車は、ボンネットや屋根、フロントウインドシールドに曲面を取り入れ、後部は長いテールをのばして、車体全面が空気の流れに逆らわないようにデザインされていた。また、正面からの投影面積を小さくする努力が為され、ボンネットや屋根をできるだけ低くする配慮が図られた。1923年、ヤーライ理論によってドイツ製の小型車レイ・T6(1,500cc・20HP)のシャーシに架装された流線型ボディ試作車は、小さく非力なエンジンでありながら原型車の70km/hに対し100km/hに到達する飛躍的高速を達成し、燃費も改善する成績を収めた。続いて他社の既存シャーシでも同様な実験を繰り返していずれも大幅な速度向上を達成、着想の正しさは証明された。 しかし、ヤーライ・タイプの流線型車体は、1920年代の常識からはあまりにもかけ離れ、実用面からもまだ難のあった姿ゆえに、すぐさま量産車に導入されることはなかった。 ヤーライ自身は既存のフロントエンジン小型車に流線型ボディを架装する形で試作車を製作していた。当時の自動車は水冷エンジンのラジエーターの背が高く、エンジンもスペースを取るロングストローク形機関を直立させて高い位置に搭載していた。これはボンネットが高くなりがちで、徹底した流線型スタイルを採るには障害になっていた。 なお、ヤーライ理論に基づくスタイリングを持つ自動車で、史上もっとも有名なのは、フェルディナント・ポルシェが設計したKdf(1938年。のちのフォルクスワーゲン・ビートル)である。
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