タトラ模倣説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:18 UTC 版)
「フォルクスワーゲン・タイプ1」の記事における「タトラ模倣説」の解説
KdFに関しては、チェコのタトラのハンス・レドヴィンカが試作し、1937年から少数を生産した1.7 Lリアエンジン車タトラ・T97との類似が指摘されることがあり、さらには同じくタトラが1934年に発表した大型リアエンジン車「T77」、1935年の「T77A」、1936年の「T87」の影響も指摘される。 全鋼製・カブトムシ型のヤーライ式流線型ボディ、空冷の水平対向もしくはV型エンジンをバックボーンフレームの後部に搭載し、四輪独立懸架とするシャーシ構造、ベルト駆動の軸流ファンによる強制空冷の冷却システムなど、確かに類似点は多い。空冷エンジン採用には、空冷モデルを主力としたタトラに対するヒトラーの傾倒があったとも言われる。 実際に戦後タトラはフォルクスワーゲンに訴訟を提起、1961年にフォルクスワーゲンは300万ドイツマルクに及ぶ賠償金を支払っている。しかしビートルの原型は1934年のNSU試作車(タイプ32)において完成をみており、タトラへの賠償金支払は著作権侵害の賠償というよりは、ドイツによるチェコスロバキア併合と、相前後してのT97生産停止命令(わずか500台余りの生産のみで製造停止された。これはフォルクスワーゲンとの類似性・クラス近似が影響したものと言われている)への賠償を肩代わりしたものとみていいだろう。 ちなみにポルシェとレドヴィンカは交遊があり、お互いのアイデアを頻繁に交換しあっていた。二人はいずれも1920年代からバックボーンフレームやスイングアクスル独立懸架、空冷エンジンなどの導入に熱心で、1931年 - 1933年頃にはほとんど並行する形で流線型ボディの空冷式小型リアエンジン試作車を開発していた。またリアエンジン流線型車を構成する個々の技術要素のほとんどは、特に二人が発明したという訳ではなかった(フォルクスワーゲンにおいても、ポルシェ自身が考案した部分は、トーションバーを用いたダブル・トレーリングアームの前輪独立懸架ぐらいである)。類似した原因は、当時のトレンドであった新技術を両者が貪欲に取り入れていた結果で、一方がもう一方を単純に模倣したと言えるものでもない。
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