タトラ国営工場→ČKDタトラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:03 UTC 版)
「ČKDタトラ」の記事における「タトラ国営工場→ČKDタトラ」の解説
第二次世界大戦を経てチェコスロバキアが東側諸国に属する社会主義国家へと変革される流れの中で、リングホッファー・タトラ社も国有企業となり、社名も「タトラ国営会社(národní podnik Tatra)」に変更された。設立当初はプラハに本社を置き国内各地に工場を所有する形で運営が行われていたが、1950年に再編が実施され、各工場が独立した国営企業として運営される事となり、スミーホフに存在した工場についても「タトラ国営会社スミーホフ工場(Vagónka Tatra Smíchov)」と言う社名に改められた。その後1958年にこれらの工場は再度スチューデンカに拠点を置くタトラ国営企業協会に纏められたが、スミーホフ工場については1963年に同じく国営の鉄道車両生産企業であったČKD社(チェコ語版)の一部門となり、社名も「ČKDタトラ(ČKD Tatra)」となった。 国営化後の生産の主力となったのは、タトラカーとも呼ばれる一連の路面電車車両であった。これは1920年代にアメリカ合衆国で開発された高性能路面電車・PCCカーの技術をライセンス契約を結んだうえで導入した車両で、リングホッファー家が工場を所有していた1930年代の時点で製造が検討されていたものの、第二次世界大戦の影響を受けて契約が調印されたのは1948年5月、チェコスロバキアが社会主義体制へ移管する直前となった。その後、1951年から生産が開始されたタトラT1を皮切りに、スミーホフ工場(→ČKDタトラ)は経済相互援助会議(コメコン)の元で路面電車車両を東側諸国へ向けて生産する事となった。中でもタトラT3は13,000両を超える大量生産が実施された事で知られている。 また、タトラカー以外にも1950年代から1970年代までは客車やトロリーバスの生産も実施していた他、タトラ電鉄線に向けて420.95形電車(チェコ語版)の製造も行った。更に1970年代にはプラハ地下鉄の開通へ向けて小規格の地下鉄用電車であるタトラR1も開発したが、こちらは計画の変更により営業運転に使用される事は無かった。 1980年代には都市の中心部にあり施設の老朽化も懸念されていたスミーホフからズリチーンへの工場の移設および規模の拡張が計画され、1989年から操業が始まったが、本格的な生産が開始されたのは次項で述べる民主主義化やビロード離婚を経た1997年となった。ただしそれ以降もスミーホフ工場での路面電車車両の生産は継続された。 スミーホフ工場へ向かう専用線(手前) 専用線を走るディーゼル機関車牽引の貨物列車 ディーゼル機関車に牽引される製造中の路面電車(タトラカー)の車体 製造中の路面電車車両(タトラKT4)
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