メテッルス解任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)
「ガイウス・マリウス」の記事における「メテッルス解任」の解説
詳細は「ユグルタ戦争」を参照 紀元前112年、王位継承を巡って元老院はヌミディア王ユグルタに宣戦を布告したが(ユグルタ戦争)、次々と政治家がユグルタに買収されてローマ軍は機能不全に陥った。紀元前109年、執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス(ヌミディクス)が新たに遠征軍を引き継ぎ、マリウスは副将(レガトゥス)として召集された。ローマ軍はヌミディア軍をムゥトールの戦い(英語版)で打ち破ったが、会戦後もヌミディア騎兵による不正規戦が続き、決定的な勝利は得られなかった。不満を持った兵士の間ではメテッルスへの不服従が広がり、副将のマリウスが指揮権を得るべきとの声が上がった。軍隊出身のマリウスは兵士から慕われており、貴族然としたメテッルスよりも人気があった。 マリウスとメッテルス家は元から遺恨のある間柄であったが、兵士の態度は両者の対立を焚き付けた。ある時、執政官出馬を考えていたマリウスにメテッルスは同名の息子クィントゥス(メテッルス・ピウス)との立候補を支援の条件に出したという。マリウスの側もメテッルスの友人がユグルタに欺かれて拠点の1つを奪われるとこの人物の処刑を求め、メテッルスは友人の死罪を認めざるを得なくなっている。 紀元前108年、マリウスは遂に執政官へ立候補する事を決めた。メテッルスは理由を付けてマリウスを陣営地から移動させず、選挙の12日前に漸く退役を認めるという姑息な嫌がらせをしている。日数の少なさに加え、新人であるマリウスの選挙は苦戦が予想された。しかしマリウスは諦めずに前線から遠く離れたウティカまでを2日間で踏破し、追い風にも恵まれて3日間で地中海を渡ってローマに辿り着いた。都では護民官と民会から熱烈な歓迎を受け、マリウスも自身を侮辱した貴族を激烈に非難する演説を行って喝采を受けた。選挙の結果、ローマ市民はマリウスを新たな執政官に選出した。 ユグルタは賄賂を使ったローマ側への政治工作を繰り返しており、元老院や富裕層が著しく腐敗した状況にある事が明るみに出ていた。民衆は従来の権力構造の外からの人材を求めていたのである。部下により失脚させられるという前代未聞の恥辱に対し、メテッルスは引継ぎに訪れたマリウスとの会見を拒絶した。そればかりか去り際にマリウスの同僚執政官ルキウス・カッシウス・ロンギヌスに指揮権を譲り、そのロンギヌスはもう1つの脅威であった北方の蛮族に備えて出兵してしまった。マリウスは市民兵に依存した軍事制度では戦争が遂行できないと判断して、それまでの資産階級(ケントゥリア)ごとに武器を自弁で用意させるという、共和政移行期から採用された制度を廃止する大胆な軍制改革を開始した。
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