マーシャル・マリアナ・パラオ
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「ホワイト・プレインズ (護衛空母)」の記事における「マーシャル・マリアナ・パラオ」の解説
ホワイト・プレインズは1943年12月4日にアストリアで艤装が完了すると、12月8日に整調訓練を開始した。整調巡航が終了すると12月21日にサンディエゴに帰還する。12月30日に出航、真珠湾経由でギルバート諸島に向かう。1944年1月11日にタラワに到着し、積み荷の航空機を陸揚げする。1月17日、オアフ島に向かい、6日後に真珠湾に到着する。4日後に再びマーシャル諸島に向けての航空機運搬任務に再び出航し、2月3日にタラワに到着、マジュロは日本軍の抵抗もなく、クェゼリン環礁の部隊もほとんど抵抗しなかった。翌日マジュロ環礁に向かい2月5日に到着、ホワイト・プレインズはクェゼリンに移動し短期の停泊後ハワイに向かう。オアフ島に短期間停泊した後、2月23日に西海岸へ向かい、3月3日にカリフォルニア州アラメダに到着した。 西海岸でホワイト・プレインズは自艦の搭乗部隊員への訓練及び3つの航空団にたいする空母認証訓練を行い、4月になると自艦の搭乗部隊、第4混成航空団を乗艦させる。部隊は16機のF4F ワイルドキャットと12機のTBM アヴェンジャーから構成された。4月24日にサンディエゴを出航し、5月1日に真珠湾に到着、翌月まで真珠湾沖で航空訓練及び上陸支援訓練を行った。 5月末、ホワイト・プレインズを含んだ任務群はマリアナ諸島に向けて出撃。艦隊は途中でエニウェトク環礁に立ち寄った後、ひたすらマリアナ諸島を目指して進撃した。ホワイト・プレインズの航空機はサイパン島までの道中、対空援護と対潜哨戒に専念していた。6月15日からサイパンの戦いが始まると、当艦の航空機は火力支援部隊に対する空中および対潜哨戒の他、上陸部隊の援護として海岸を機銃掃射したり、日本軍が潜伏しているであろう地点を爆撃した。6月17日、艦隊は少なくとも3回の空襲に見舞われたものの、ホワイト・プレインズの対空砲火はこれを簡単に撃滅してみせた。その後、第4混成航空団のTBMアヴェンジャーはロタ島を空襲して輸送船などを破壊した。 7月2日、ホワイト・プレインズは一旦戦闘地域を後にしてエニウェトク環礁に下がり、航空機を補充した後再びマリアナ海域に戻ってきた。マリアナでの二度目の作戦ではテニアンの戦いの支援を行った。戦いを通じてホワイト・プレインズは一度たりとも攻撃を受けず、終始テニアン島への上陸部隊に対する援護に従事した。しかし、一連の過酷な戦闘航海はホワイト・プレインズの乗員および、第4混成航空団のパイロットに予想以上に負担をかけていた事が分かった。 8月に入り、ホワイト・プレインズはマリアナでの戦闘から外れてエスピリトゥサント島に向かった。休養の後、8月16日にセゴン水道を出港して、来るパラオへの上陸作戦に備えた準備を開始した。ソロモン諸島の海域や島嶼を使った水陸両用作戦の訓練を繰り返した後、9月に入って他の空母と合流して9月の第二週目までにパラオ近海に向かった。9月15日から始まったペリリューの戦いおよび、9月17日から始まったアンガウルの戦いに関連して、ホワイト・プレインズと他の空母の航空機は事前攻撃と上陸部隊の支援を行った。マリアナでの戦闘とは逆に、上陸作戦は難渋したものの日本軍は艦隊や航空機を呼んでこなかった。日本軍はすでにフィリピン防衛のために航空機を温存していたので、日本軍の空襲は一度も無かった。また、島の日本軍は新しい戦術で対抗していたため、海岸ではわずかな沿岸砲台ぐらいしか見つけることが出来なかった。9月21日、ホワイト・プレインズはパラオ攻撃部隊から外れ、すでに放置されていたウルシー環礁確保のための作戦に参加した。
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