マンハッタン号の日本寄港とは? わかりやすく解説

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マンハッタン号の日本寄港

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/23 04:49 UTC 版)

マーケイター・クーパー」の記事における「マンハッタン号の日本寄港」の解説

1843年11月9日クーパー440トン捕鯨船マンハッタンManhattan)の船長としてニューヨーク州サグハーバー(Sag Harbor)を出港した1845年3月14日マンハッタン小笠原諸島鳥島11人、また翌日漂流中の11人の日本人漂流民を救出したクーパー房総半島沖で4人の漂流民をボート上陸させ、残り漂流民を港に送り届けたい旨を伝えさせた。日本鎖国中であり、外国人との接触嫌がったが(但し、この3年前天保薪水給与令がでて、やや柔軟な政策転換していた)、1845年4月18日幕府マンハッタン号の浦賀への入港認めたマンハッタン強風のため一旦北方流されたが、その間幕府では老中首座阿部正弘幕閣協議があった)。クーパー日記によると、それぞれ15人が乗った300隻の日本船に曳航されての入港であった。「我々は全員武器預け帰国までそれは返却されなかった。何人かの高官一人江戸詰め浦賀奉行土岐頼旨)が船を訪れ、彼らは何れも友好的であった。」 日本人彼の船と、またマンハッタン乗組員では唯一の黒人であったパイラス・コンサー(Pyrrhus Concer)とアメリカ先住民であるエリーザー(Eleazar)を興味深く調べた日本側は、コメ20俵、麦2表、小麦粉1箱、さつまいも11俵、50羽、木材大根お茶10ポンド無料供給し、その他漆器などのおみやげ渡し漂流民の送還感謝したまた、クーパーに対して日本戻ってないようにとも告げた4月21日300隻の日本船が、マンハッタン沖合20マイルまで曳航した。 クーパーはこのとき、日本人漂流民が使用していた海図持ち帰り1846年10月14日帰国後に米国政府提出した。この地図マシュー・ペリー1853年日本来航の際に利用されと言われている。

※この「マンハッタン号の日本寄港」の解説は、「マーケイター・クーパー」の解説の一部です。
「マンハッタン号の日本寄港」を含む「マーケイター・クーパー」の記事については、「マーケイター・クーパー」の概要を参照ください。

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