マントルの残した記録・逸話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 20:48 UTC 版)
「ミッキー・マントル」の記事における「マントルの残した記録・逸話」の解説
1974年、資格取得1年目で早速アメリカ野球殿堂入りを果たす。 通算の打点と安打数は後にエディ・マレーに破られたが、通算536本塁打は今もスイッチヒッターとしてはMLB史上最多で、MLB史上最高のスイッチヒッターとしてその名を残した。また、ワールドシリーズにおける通算18本塁打、40打点はいずれもMLB記録である(2013年終了時点)。 故障には始終悩まされていた。前述にもあるように1951年のワールドシリーズ第2戦で、外野の守備でニューヨーク・ジャイアンツのウイリー・メイズの打球を追っていた時にスプリンクラーに足をひっかけて膝を痛め、終生この膝の故障に悩まされた。また1963年にはフェンスに激突して65試合にしか出場できなかった。それでも数々のタイトルを獲得しているので、同僚のエルストン・ハワードは「怪我がなければ史上最高の打者になっていただろう」「年間70本も夢じゃなかった」と語っている。 マントル本人が「私の野球人生の中で最も強烈な打球」と語っているのは、1963年5月22日にヤンキー・スタジアムでビル・フィッシャー(アスレチックス)のカーブをとらえたもので、ヤンキースタジアムのライト最上部の鉄傘に直撃して跳ね返り、もう少し打球が高ければ場外ホームランだったという驚愕のものである。この本塁打の飛距離については諸説あるが、いかにマントルの飛距離が人間離れしているかがよくわかる。監督のケーシー・ステンゲルはその天性のパワーがあれば全力で振らなくてもコンパクトなスイングをすれば確実性もあがるとマントルを幾度となく説得したが、マントルは耳を貸さなかったという。 また、マントルは左打席から一塁まで3.1秒で到達できた俊足で、ドラッグバントも得意としていた。チームの試合スタイルが変わっていたら、40-40(40本塁打40盗塁)どころか、50-50(50本塁打50盗塁)もできていたとも言われる。実際、1988年にホセ・カンセコが40-40を達成したそのオフ、57歳になっていたマントルはこう述べている。 「 (カンセコの40本塁打40盗塁が)あんなに大したことになるとわかっていれば、5度か6度はやっていた。 」 他にも現役時代は指名打者制度がまだなかった(導入されたのは引退後の1973年から)ため、もし導入されていれば守備の負担軽減で、膝や足のケアができるためにもっと長く現役生活を続けられていただろうと言われている。 「王冠を賭けた恋」で有名なウィンザー公は彼のファンとしてマントルの現役時代にヤンキー・スタジアムのロッカールームを訪れたこともある。 ヤンキースタジアムで半世紀以上、延べ4500試合以上場内アナウンスを担当したボブ・シェパードが「最もお気に入りの選手」にマントルを挙げている。理由は並外れたパワーと実績があることに加え、自身のヤンキースタジアムデビューと同じ試合でマントルがメジャー初出場を果たしており謂わば同期であること、そしてファーストネームとラストネームが共に「M」から始まるので韻を踏んでいてコールしていて気持ちがいいことを挙げている。 ジョー・ディマジオがアーネスト・ヘミングウェイの『老人と海』をはじめ多くの作品で取り上げられていることは有名だが、マントルもまたスティーヴン・スピルバーグの映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のなかで、レオナルド・ディカプリオ演じる詐欺師の主人公が、「ヤンキースはなぜ強いのか知ってるかい?対戦相手がヤンキースの縦縞のユニフォームに見とれているからさ」と言うと、トム・ハンクス演じる刑事が「ヤンキースが強いのはミッキー・マントルがいるからであって縦縞に見とれているわけではない。」というやり取りにおいて取り上げられている。
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