マヌティウスによる出版活動
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「アルド印刷所」の記事における「マヌティウスによる出版活動」の解説
マヌティウスは「テルマエ」に住み込んで働き、アルド印刷所の出版物を製作した。印刷所でははじめ、プラトン、アリストテレス、およびその他のギリシア語とラテン語の古典が新たに印刷された。アルドゥスはまた、本の解釈の助けとなるよう辞書と文法書も印刷したが、こうした書物は、古典を原語のまま教えるためにギリシア語を学びたがっていた学者たちによって活用された。ギリシャ語で学んだ学者の一人であるエラスムスは、アルド印刷所と提携し、正確に翻訳されたテキストを提供してもらっていた 。歴史家のエリザベス・アイゼンスタイン(英語版)は、1453年のコンスタンティノープル陥落によってギリシャの学問の重要性や存続が脅かされたと主張したが、アルド印刷所などの出版物がこれを支えたと言える。なお、ギリシア語文献を刊行するにあたっては、クレタ島カンディア出身のマルコス・ムスロスが編集・校訂面で活躍した。こうして印刷所は、特に1490年代後半以降ヴェネツィア議会、総督、教皇庁から様々な印刷特認権も得ながら、ヴェネツィア共和国内におけるギリシャ語著作の印刷を事実上独占した。後述する新しい活字を制作・使用しつつ、八折り版を含めた多くの古典の刊行を行った。しかし共和国外では問題を抱えており、印刷所がパリに設けていた代理店はリヨンやその他の場所で製作された多くの偽造品による影響を受けた。アルド印刷所はその後、同時代の言語、主にイタリア語やフランス語にも手を拡げていった。 印刷所はまた、マヌティウスの友人、同僚、編集者らのグループが集まりギリシャ語とラテン語のテキスト翻訳をはじめとする交流を行ったサロン「ネアカデミア」の活動場所でもあった :1-5 。マヌティウスは1502年から1504年にかけて、アカデミーの名前を奥付に記した7書を印行している。 1505年の謝肉祭の頃、マヌティウスはアーゾラのアンドレア・トッレザーニの娘であるマリアと結婚した。トッレザーニとマヌティウスはすでにビジネスパートナーの関係にあったが、この結婚により出版事業における2人の持ち分が合わさることとなった。結婚後、マヌティウスはトッレザーニの家に住まうこととなった。この頃印刷所の隆盛は落ち着きを見せており、1506年には印刷所も聖パテルニウス教区にあるトッレザーニの家に移された。この建物は1873年に取り壊され、現在はヴェネツィア広場、マニン広場にある銀行の建物の一部となっている。
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