マヌッツァ丘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 00:44 UTC 版)
アクロポリスの北側のマヌッツァ丘の現代の道路は、巨大な台形をした古代のアゴラの境界を巡っていると思われる。全体が住居区域でヒッポダモス式の都市計画に従っており(航空写真による再現)、アクロポリスの向きと比較すると、やや傾いている。インスラ(街区)は190 x 32メートルと南北に細長く、元々は壁で囲まれていた。この地域の系統的な発掘は行われていないが、何回かの試掘の結果、セリヌスの建設時点(紀元前7世紀)から住居地域として使われており、すなわち街の規模が後日に拡大したものではないことが確認された。 紀元前409年のセリヌスの破壊跡、この区域に再入植は行われなかった。ヘルモクラテスの支持者達も、より防御しやすいアクロポリスにのみ居住していた。1985年に丘の上で凝灰岩の構造物が発見されたが、紀元前5世紀の公共建築物と思われる。居住区域を越えたさらに北側には、ネクロポリスが2箇所ある。マヌッツァとより古いものがガレラ-バグリアッツォにある。
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