マスとの結婚と日清戦争従軍
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「ジョルジュ・ビゴー」の記事における「マスとの結婚と日清戦争従軍」の解説
1889年で『トバエ』は休刊し、その後もビゴーは複数の風刺画雑誌を刊行した。しかし、大日本帝国憲法発布で自由民権運動が終息すると、条約改正問題を除けば日本の政治に関する風刺はほとんど見られなくなった。1893年には半年ほど京都市に滞在。これは大阪市や神戸市の外国人居留地へのセールスが目的であった。また、この時期に千葉県検見川村稲毛(現・千葉市稲毛区)にアトリエを構えて移り住み、帰国直前まで暮らすことになる。 1894年(明治27年)7月、34歳で士族の佐野清の三女・佐野マスと結婚した。マスは美しい切れ長の瞳を持つ美人で、ビゴーより17歳年下であった。ビゴーは日本への永住を考えていた。この頃、フランスから帰国して間もない黒田清輝と知り合った。ビゴーは日本で暮らすため、画壇の重要人物と目した黒田の知遇を得ようとした。しかし、最新の流派を学んで帰国した黒田と上記の通り古い写実主義で育ったビゴーでは絵画に対する考えに大きな違いがあり、結局二人は大喧嘩をして絶縁した。 同年8月に日清戦争が勃発すると、ビゴーは英紙『ザ・グラフィック』の特派員として陸軍に従軍。二度にわたって朝鮮半島や中国東北部を取材し、報道画を寄稿した。1度目は釜山・仁川・平壌と朝鮮国を北上し、10月下旬の鴨緑江作戦を取材して11月初旬に広島に戻り、約1ヶ月間、新婚の妻マスと過ごして12月には再び中国戦線に出かけ、翌年にかけて満州を取材した。これらの絵は野戦病院や雑役に従事した軍夫など、日本のメディアが関心を向けない題材が描かれていた点で貴重なものである。また、従軍に際しては写真機を持参しており、約200点の写真を撮影している。ただし、日清戦争が終結すると外国紙への寄稿は次第に少なくなっていった。1895年(明治28年)にはまた、長男モーリスが誕生した。
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