マカオ暴動とは? わかりやすく解説

マカオ暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:07 UTC 版)

マカオ」の記事における「マカオ暴動」の解説

詳細は「一二・三事件」を参照 中華人民共和国内で文化大革命が行われていた1966年11月に、中国共産党小学校における無許可での増築工事対すポルトガル陸軍大佐のモタ・セルヴェイラ代理総督による制裁が行われ、この制裁怒った住民によるデモセナド広場などで数回にわたり行われた当初平和的なデモであったが、その後中国共産党系の住人によって暴動化し12月3日には、これを鎮圧しようとしたフィゲレド警察署長指揮下のポルトガル軍警察デモ隊発砲したために、数人デモ隊死亡する惨事となった事件最中赴任したホセ・マニュエル・デ・ソウサ・エ・ファロ・ノブレ・デ・カヴァーリョ新総督は、29日午後にマカオ経済界代表と会談し学校建設阻止のために警察動員したことは不適切であったことを認め中立調査委員会設けて事件の解決図ろうとした。 しかし中華人民共和国政府は、人民解放軍によるマカオへの軍事侵攻ほのめかしながら、ポルトガル政府に対して事件謝罪責任者処罰共産党系の遺族対す慰謝料支払い以後中国共産党住民による統治参加、そして中華民国国務機関諜報機関)によるマカオ内での活動の停止などを要求した当時ポルトガル海上帝国ポルトガル植民地戦争国力低下しマカオわずかな軍事力しか駐留させていなかった上に、同じく海外領土として中国大陸香港抱えていたイギリスとの英葡永久同盟5年前ゴアなどのポルトガル領インドから武力侵攻受けた際に役立ってなかったため、軍事的な支援期待できなかった。軍事対立起きた場合全てを失うとサラザール首相判断し総督毛沢東肖像画掛けられた場所で謝罪文書署名させられ、セルヴェイラ代理総督追放され要求をほぼ全面的に受け入れた以後マカオの王」「マカオの影の総督」と呼ばれポルトガル政府友好的な関係を持った親中派実業家の何賢(中国語版)の影響下に入ることになり、当時アフリカポルトガル植民地とは対照的に政情安定したポルトガル政府中華民国との国交保ち続けたにもかかわらず国連国際連合総会決議2758賛成したり、その植民地であるマカオあらゆる中華民国活動禁止して単独中華民国事実上断交」するなど中華人民共和国政府配慮した政策をとることとなった

※この「マカオ暴動」の解説は、「マカオ」の解説の一部です。
「マカオ暴動」を含む「マカオ」の記事については、「マカオ」の概要を参照ください。

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