マカオ事件
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「マカオ事件 (1799年)」の記事における「マカオ事件」の解説
フランス艦隊とスペイン艦隊が合流したという報は、まもなくイギリス艦隊のレーニアの元にも届いた。マカオにはフリゲート艦フォックスとケリーズフォート、それにウィリアム・ハーグッド大佐が艦長を務める64門の砲を擁する戦列艦イントレピッドが護衛任務のため停泊していたが、フォックスとケリーズフォートは1798年11月に地元の商船団の護衛のためマカオを離れていた。当時フランスのエジプト侵攻に対応するため主力艦隊を率いて紅海にいたレーニアは、緊急措置として38門フリゲート艦ヴィルジニーと74門戦列艦アロガントをマカオ防衛に差し向けた。この援軍はマラッカ海峡と南シナ海を抜け、1799年1月21日にマカオに到着した。 これに先立つ1799年1月6日、スペインの74門戦列艦エウロパとモンタニェス、フリゲート艦Maria de la Cabeyaとルイサ、それにフランスのプレネーゼとBrûle-Gueule、という計6隻の艦隊がマニラを出港していた。これを率いるのはイグナシオ・マリア・デ・アラバ海軍少将だった。アラバ艦隊は3週間かけて南シナ海を横断し、1799年1月27日にマカオに近い万山諸島に到着し、マカオや珠江河口部襲撃の機をうかがった。イントレピッドがマカオにいることは、アラバはデンマーク商人から伝えられていたが、レーニアの送ってきた増援艦隊は想定外であった。 ハーグッドは直ちに艦隊を率いて万山諸島に向かい、アラバと接敵した。まず両陣営は単縦陣を敷いて向かい合った。イギリス側の戦闘にはフリゲート艦ヴィルジニーが配置されていた。その後に続く経過については議論がある。ハーグッドの報告によれば、フランス・スペイン連合艦隊は向きを変えて万山諸島に逃げ込み、夜闇にまぎれて投錨し、夜明け前に撤退したという。ハーグッドは、これを「彼らが恥辱に終わることが明らかであるような戦闘を避けた」からだとしている。一方アラバはマニラの官報で、万山諸島に逃げ込んだのはハーグッドの側であり、それをスペイン戦列艦エウロパが追ったのだと主張した。アラバによれば、彼自身はハーグッドを追撃しようとしたものの、モンタニェスの索具が損傷したために彼を取り逃がしたのだという。しかし、それならばなぜ無防備になったマカオのイギリス中国船団を攻撃せず撤退したのかという点については、アラバは説明していない。
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