マカオ事件とは? わかりやすく解説

マカオ事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/23 23:49 UTC 版)

マカオ事件 (1799年)」の記事における「マカオ事件」の解説

フランス艦隊スペイン艦隊合流したという報は、まもなくイギリス艦隊レーニア元に届いたマカオにはフリゲート艦フォックスとケリーズフォート、それにウィリアム・ハーグッド大佐艦長務め64門の砲を擁する戦列艦イントレピッド護衛任務のため停泊していたが、フォックスとケリーズフォートは1798年11月地元商船団の護衛のためマカオ離れていた。当時フランスエジプト侵攻対応するため主力艦隊を率いて紅海にいたレーニアは、緊急措置として38フリゲート艦ヴィルジニー74戦列艦アロガントマカオ防衛差し向けた。この援軍マラッカ海峡南シナ海抜け1799年1月21日マカオ到着した。 これに先立つ1799年1月6日スペイン74戦列艦エウロパとモンタニェス、フリゲート艦Maria de la Cabeyaとルイサ、それにフランスのプレネーゼとBrûle-Gueule、という計6隻の艦隊マニラ出港していた。これを率いるのはイグナシオ・マリア・デ・アラバ海軍少将だった。アラバ艦隊は3週間かけて南シナ海横断し1799年1月27日マカオに近い万山諸島到着しマカオ珠江河口部襲撃の機をうかがったイントレピッドマカオにいることは、アラバデンマーク商人から伝えられていたが、レーニア送ってきた増援艦隊想定外であったハーグッド直ち艦隊率いて万山諸島向かいアラバ接敵した。まず両陣営単縦陣敷いて向かい合ったイギリス側戦闘にはフリゲート艦ヴィルジニー配置されていた。その後に続く経過について議論がある。ハーグッド報告によればフランス・スペイン連合艦隊向き変えて万山諸島逃げ込み夜闇まぎれて投錨し夜明け前撤退したという。ハーグッドは、これを「彼らが恥辱に終わることが明らかであるよう戦闘避けた」からだとしている。一方アラバマニラ官報で、万山諸島逃げ込んだのはハーグッドの側であり、それをスペイン戦列艦エウロパ追ったのだと主張したアラバによれば、彼自身ハーグッド追撃しようとしたものの、モンタニェスの索具損傷したために彼を取り逃がしたのだという。しかし、それならばなぜ無防備になったマカオイギリス中国船団攻撃せず撤退したのかという点については、アラバ説明していない。

※この「マカオ事件」の解説は、「マカオ事件 (1799年)」の解説の一部です。
「マカオ事件」を含む「マカオ事件 (1799年)」の記事については、「マカオ事件 (1799年)」の概要を参照ください。

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