ポータブル機の登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:32 UTC 版)
ビデオ機材の小型化が進められるにつれ、ニュース素材やロケーション撮影でも、フィルムを使った撮影ではなく、直接にビデオ信号として録画したいというニーズが出てきた。また、民生用としても「自分でテレビ番組を作りたい」といったニーズも出てきた。 当初の様式は、一体型のカムコーダ形式のものではなく、カメラヘッド(撮影部)とビデオデッキ(録画部)が分離しており、その2つの機械をケーブルで接続して使用するというものだった。 民生用としては、1966年にSONYがモノクロ録画が可能な機材を発表(カメラ=DVC-2400、デッキ=DV-2400)、1969年には同じくSONYがカラー録画が可能な機材を発表している(カメラ=AVC-3500、デッキ=AV-3500)。しかしながらこの時代に一般市民が動画記録を撮影するならば、第一の選択肢は8mmフィルムであり、ビデオが使われることはめったになかった。ただし、個人でも情報発信ができるというメリットに着目したマイケル・シャンバーグ(英語版)は、マスメディアとは異なる多様なビデオ文化を目的として、1971年に「ゲリラ・テレビジョン(英語版)」という著書を発表した。アートの世界では、ナム・ジュン・パイクらによってビデオ・アートが発表され、芸術作品の新たな手段として知られるようになった。カナダのビデオ作家であるマイケル・ゴールドバーグは、1972年に日本でビデオ・アートのワークショップを行い、日本でも小林はくどうらビデオ作家、ビデオ・アートの誕生を促す契機となった。 また、放送用・業務用としては、1976年にU規格(Uマチック)のポータブルビデオデッキが登場し(BVUシリーズ)、ビデオカメラと組み合わせてニュース取材などに使われ始めた。もともとU規格は民生用の規格だったが、民生用規格としてはややオーバースペックであり、ベータマックス・VHSの登場によって立場を失いつつあった。そこにアメリカ合衆国のテレビ局から「取材用に使えないか」という打診があり、取材目的の放送用・業務用機という新境地を見出すことになったものであり、これがENGのさきがけとなった。同時期に1インチVTRのポータブル機も登場したが、これはオープンリールであり神経質なマシンだったことや大きく重かったことからあまり使われることがなかった。 放送業務用の機材は、ビデオカメラ・ビデオデッキともに大きく重いものであったため、カメラマンがビデオカメラを、ビデオエンジニアがビデオデッキを、それぞれ担いで、2人一組で撮影を行うというスタイルであった。
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