ポロ・グラウンズⅣ
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「ポロ・グラウンズ」の記事における「ポロ・グラウンズⅣ」の解説
急遽2カ月の突貫工事で鉄筋コンクリートのスタンド改築を行った。その間は、ジャイアンツはニューヨーク・ハイランダーズ(現ニューヨーク・ヤンキース)の本拠地球場ヒルトップ・パークを借りていたが、同年6月28日、まだ完成していないにもかかわらず、新ポロ・グラウンズに移転した。以降スタンド工事を進めながら試合を行った。そして1913年にはヤンキースもこの新しい鉄筋コンクリートのポロ・グラウンズに移転してきた。 ポロ・グラウンズのフィールドは両翼までの距離が短く特にライトのポールまでの距離は79mと短く、この恩恵を受けたのがベーブ・ルースで、1920年シーズンにまだポロ・グラウンズを本拠地としていたヤンキースに移籍すると前年ボストン・レッドソックスで29本の本塁打(これでも当時の年間新記録であった)を打っていたのが一挙に54本の本塁打を飛ばす大活躍で、このルースの人気を受けヤンキースもメジャー史上初の年間観客動員100万人を突破した。 ジャイアンツのジョン・マグロー監督はこれに腹を立て、ヤンキースに「1921年以降、ポロ・グラウンズの使用を禁じる」と通告した。これに対してヤンキースはポロ・グラウンズからハーレム川を渡ったブロンクス地区にヤンキー・スタジアムを建設した。この球場はライトまでの距離がポロ・グラウンズに比べて長いがそれでも他の球場に比べて短い296フィート(90m)であったのでベーブ・ルースはさらにホームランを量産した。 その後1925年にはNFLのニューヨーク・ジャイアンツがこの球場を本拠地にし、ポロ・グラウンズは野球とアメフトの兼用となった(1955年まで)。 しかしベーブ・ルース以降の常勝軍団ヤンキースの活躍で、人気も実力も観客数でも同じニューヨークのジャイアンツもドジャースも見劣り、1950年代に入ってナショナル・リーグのジャイアンツは成績、観客動員ともに落ち込み、またポロ・グラウンズの老朽化に伴い球団幹部はニューヨークからの脱出を考えるようになる。そこに同じ悩みを抱えたドジャースから「西海岸に一緒に移転しないか」と誘いがかかった。ドジャースは西海岸に移転する際、自分たちだけが移転したら移動が大変だと考え、もう1球団と一緒に西海岸へ移転する構想を持っていた。ジャイアンツはこの計画に乗り、サンフランシスコへの移転を決断。1957年を最後にポロ・グラウンズを去った。 1960年から、AFLのニューヨーク・タイタンズ(1963年からジェッツにチーム名変更)がここを本拠地にした(1963年まで)。 1962年には、MLBでニューヨークに新球団メッツが誕生。62年と63年はポロ・グラウンズを本拠地にし、90万人近い観客動員を記録した。 メッツは1964年より新球場シェイ・スタジアム竣工により移転し、ポロ・グラウンズは1964年4月に解体された。解体後の跡地には「ポロ・グラウンズ・タワーズ(Polo Grounds Towers)」という高層アパートが建てられている。
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