ボクシングプロモーターヘ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 14:08 UTC 版)
「ドン・キング」の記事における「ボクシングプロモーターヘ」の解説
1972年8月28日、ロイド・プライスの助けを借りて、経営危機に陥っていたクリーブランドの地元病院のチャリティー大会でモハメド・アリにエキシビジョンマッチをやらせることに成功。8万ドルを稼ぎだす、これがボクシング界参入のきっかけとなった。 1973年、ラリー・ホームズのマネージャーを務めていたドン・バトラーを口説き、共同マネージャーになることに成功する。(しかし1975年に仲たがいをしてバトラーから告訴されることになる。) 1974年、「ドン・キング・プロダクションズ」を設立。 1974年10月30日にアフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)・キンシャサで、世紀の一戦と謳われたモハメド・アリとジョージ・フォアマンの対戦『ランブル・イン・ザ・ジャングル』(キンシャサの奇跡)をプロモートしたことにより詐欺的手法で大金を手にしたと言われている。この一戦を契機に名の知れた存在となると同時に悪評も聞かれるようになった。 1975年、フィリピンのマニラでモハメド・アリとジョー・フレージャーの対戦『スリラ・イン・マニラ』をプロモート。 1977年、選手の戦績を不正に改ざん、ランキングを不正に操作したとしてFBIから捜査を受ける。起訴はされなかったが、これによりABCがキングとのテレビ契約を取り消し、放送打ち切りに繋がった。 1980年、再びFBIによって大規模な捜査を受ける。 1981年、ボクサーに1000万ドル支払った初のプロモーターとなる。シュガー・レイ・レナードとロベルト・デュランの対戦でレナードに1000万ドル支払われた。 1983年、オハイオ州知事から殺人事件について完全赦免を受ける。 1984年、秘書のコンスタンス・ハーパーと共に保険詐欺容疑で起訴される。1985年にハーパーに有罪判決が下されるが、キングは無罪となる。 1985年、脱税容疑や保険金詐欺など9つの容疑で起訴されるが、全て無罪を勝ち取る。 1988年、マイク・タイソンと契約。 1993年、メキシコで13万人の観客を動員したフリオ・セサール・チャベスとグレグ・ホーゲンの対戦をプロモート。 1995年、マイク・タイソンとピーター・マクリーニーの試合において、WBA、WBC、IBFのランキングを不正に操作しマクリーニーを10位以内にランキング入りさせたとして告訴される、キングは不正があったことを認めている。 1997年、マイク・タイソンとイベンダー・ホリフィールドの対戦をプロモート、当時のペイ・パー・ビューの記録を打ち立てる。国際ボクシング名誉の殿堂博物館殿堂入りを果たす。 1999年、IBFの八百長試合、ランキングの不正売買の捜査の一環としてマイアミのキングのオフィスがFBIによって家宅捜索を受ける。 2014年10月、キングの契約選手ギレルモ・ジョーンズがロシアの試合で2試合連続して薬物検査で摘発され、試合を主催していた現地プロモーターがキングに対し240万ドルの損害賠償を請求していた裁判で、キング敗訴の判決が下される。 キングはこれまでに、マネージャーやボクサーから100件以上の訴訟を起こされており、裁判費用として3000万ドル以上を費やしたと試算されている。
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