ベートーヴェンとの親権争い
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「ヨハンナ・ヴァン・ベートーヴェン」の記事における「ベートーヴェンとの親権争い」の解説
1812年に夫のカスパールが結核に感染する。1813年までに病状の進行した彼は、自分の死後の息子カールを世話する人物を決める裁判所への宣言文を持ち出した。彼はルートヴィヒを唯一の後見人に選定する。1815年、死の2日前に彼は遺言状の中で同じ希望を繰り返し、11月14日にこれを作成した。ところが、同じ日に遺言補足書が追加されヨハンナを共同後見人とすることになったのである。カスパールは遺書の中に「私の兄と妻の間には最高の調和は存在しない」との記載を行っており、ベートーヴェンとヨハンナが既に非常に険悪な仲であったことは明らかであった。彼はこう続けている。「[2人が]我が子の福祉のために円満たることを神がお許し給わんことを。これが死にゆく夫、そして父としての我が最後の願いである。」 この願いはむなしく終わる。カスパールの死の2日後に始まった出来事をルイス・ロックウッドはこう表現している。「その少年の親権を巡るベートーヴェンと義妹の間の苦悶の感情的法廷闘争は4年以上も続き、終わりのない怨恨、出廷、勝利したかに見えての差戻、控訴を強いた。」最終的にベートーヴェンが争議に勝つことになるが、結果としてカールが受けた影響が有害なものであったことはほぼ間違いない。 闘争の舞台となった裁判所は下オーストリア帝国王立州法廷といい、貴族階級の生まれの人々の係争に特化した裁判所であった。11月22日に裁判所はヨハンナをカールの後見人、ベートーヴェンを共同後見人とする判断を下す。28日にベートーヴェンは法的手続きを申請し、ヨハンナが後見人に不適格であるとする訴訟を起こした。この請願は成功し、1816年1月9日にベートーヴェンは単独後見人に任命された。1816年2月2日に彼はカールをカジェタン・ジアンナタジオ・デル・リオ(Cajetan Giannatasio del Rio)が運営する寄宿校に入学させた。 非常に限られた面会の権利しか認められなかったヨハンナは、1818年に法廷での反撃を開始した。このときには、州法廷はベートーヴェン一家の名前にある「ヴァン」(van)が貴族階級を示すものでないことに気づき、管轄は平民の裁判所であるウィーン治安判事に委ねられるべきであるとした。この裁判所はヨハンナに対して大層同情的で、さらにカールがベートーヴェンの家を飛び出して母の家に逃げ込んだ(12月3日)という事実にも影響された。また、それに先立つ同年中にカールは放校処分になっていたのである。 闘争の最終章は1820年、ベートーヴェンが上訴裁判所への請願を出して火蓋が落とされた。ベートーヴェン側では友人のヨハン・バプティスト・バッハの巧みな主張が奏功し、ベートーヴェンは永久親権を勝ち取ることになった。ヨハンナが7月に行った皇帝への上訴は却下され、完全に結審したのであった。
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