ベートーヴェンのウィーン訪問
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「ベートーヴェンとモーツァルト」の記事における「ベートーヴェンのウィーン訪問」の解説
ベートーヴェンは1787年の初頭にウィーンを訪れているが、正確な日付に関する記述は食い違っている。クーパーは彼が4月初旬に到着、約3週間後に同地を後にしたと述べている。ハーベルは到着を1787年1月、出発を3月または4月とし、彼が10週半にわたり同市に留まったとしている。『Regensburgische Diarium』(レーゲンスブルク日記)の中にこれに関する証拠がある。ベートーヴェンは少なくとも母の健康状態のこともあってのボンへの帰郷を急いでいた(彼の母は結核により同年7月に死去している)。父のヨハンはアルコール依存によりほとんど働くこともままならず、2人の弟がいたベートーヴェンは家族を支えるために帰宅しなければならなかったのかもしれない。 ベートーヴェンのウィーン訪問に関する記述資料は乏しい。2人の作曲家は出会っていた可能性もある。ハーベルの考えた日程通りであれば、これが起こり得る期間として約6週間あることになる(モーツァルトは1787年はじめの一部をプラハで過ごした)。 19世紀の伝記作家であるオットー・ヤーンはベートーヴェンがモーツァルトの前で即興演奏をして、モーツァルトを感心させたという逸話を紹介している。ヤーンはこの話について証拠を示しておらず、単に「ウィーンで信頼できる筋から私に伝えられたことだ」と述べるに留まっている。ベートーヴェンと同時代に生きたイグナーツ・フォン・ザイフリートは、ベートーヴェンとモーツァルトとの出会いは次のようなものだったと記している(ただし、ザイフリートは訪問が1790年だったとしている)。 1790年にベートーヴェンはウィーンに短期滞在する。彼はモーツァルトを聴きに同地へ赴いたのであり、紹介状も携えていた。ベートーヴェンはモーツァルトの前で即興演奏してみせた。モーツァルトは暗記した曲なのだろうと考えて、関心のなさそうな様子で聞いていた。その後、ベートーヴェンはその特有の志によって、扱うべき主題を要望した。モーツァルトは疑いを含む笑みを浮かべ、すぐに彼へ半音階的なフーガの主題を与えた。二重フーガの「al rovescio(逆の)」となる対位主題は明かさないままとなっていた。ベートーヴェンは恐れることなく主題に取り組み、隠された意図を直ちに了解すると、非常な長さと驚くべき独自性と力強さを示した。モーツァルトの注意はこれに釘付けとなり、驚嘆が極まると幾人かの友人が集う隣室へ静かに踏み入れ、輝く目でそこにいた者たちにこう囁いた。「この若者から目を離してはいけません、彼はいつかあなた方に何か驚くようなことを伝えてくれるでしょう!」 しかし、現代の研究者はこの話にいくらか懐疑的である。『ニューグローヴ世界音楽大事典』はこれに言及しておらず、ウィーン訪問に関する記事は次のようになっている。 1787年の初にベートーヴェンはウィーンを訪れた。文書が残されていないため、旅の目的やそれがどの程度果たされたのかついてはわからないままとなっている。しかし、彼がモーツァルトに出会い、数回のレッスンを受けたのではないかという話については少々疑問に思われる。 しかし、歴史家の中にはモーツァルトとベートーヴェンの出会いは全く信用ならないという者もいる。 モーツァルトとベートーヴェンの伝記を両方著したメイナード・ソロモンはヤーンの逸話に触れておらず、モーツァルトがベートーヴェンに対してオーディションを行った上で不合格にしたかもしれないという可能性を提唱してさえいる。 ベートーヴェンはボンでモーツァルトの後継者となるべく[影響力のある貴族の集まりから]特訓を受け、その目的を前進させるべく(中略)ウィーンへ送られた。16歳のベートーヴェンは、しかし、まだ独り立ちの準備を整えていなかった。父に急き立てられ、若きヴィルトゥオーゾはウィーンを後にし(中略)肺病の母の状況に、そしておそらくモーツァルトからの拒絶にも意気消沈して自宅へと戻った。(モーツァルトは)従前より、やっかいな経済状況など、自身のことにかかりっきりで、もう一人の弟子を取ることを真剣に考慮することができなかったのではあるまいか。たとえそれが大いなる才能であり、著名なパトロンの後ろ盾のある人物であってもである。 ソロモンは続けて当時のモーツァルトが捕らわれていた事物を列挙している。悪化する父レオポルトの健康状態、プラハ訪問、『ドン・ジョヴァンニ』の作業開始、「その他大量の音楽」の作曲である。これに加え、既にモーツァルトは自宅に住み込みの門弟を抱えていた。9歳のヨハン・ネポムク・フンメルである。 ベートーヴェンが実際にモーツァルトに会っていたかどうかを決定することはできないものの、彼がモーツァルトの演奏を聴いていた可能性はそれよりもより高い。ベートーヴェンの弟子であるカール・チェルニーはオットー・ヤーンに対し、ベートーヴェンが自分に対しモーツァルトが「巧みな、しかし切れ切れの弾き方をした、『リガート』ではなかった。」と語ったいう。 ベートーヴェンがモーツァルトに会えたかどうかにかかわらず、1787年の訪問は彼にとって不運な時期の始まりとなったようである。『グローヴ大事典』は次のように書いている。「(ベートーヴェンの)最古の現存する手紙は[ウィーンへの]途上で親しくなったアウクスブルクの親族へ宛てたもので、その夏の気の滅入る出来事が記されており、健康を害した[ことに並び]憂鬱(中略)についてほのめかしている。」
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