ベートーヴェンのウィーン訪問とは? わかりやすく解説

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ベートーヴェンのウィーン訪問

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:08 UTC 版)

ベートーヴェンとモーツァルト」の記事における「ベートーヴェンのウィーン訪問」の解説

ベートーヴェン1787年初頭ウィーン訪れているが、正確な日付に関する記述食い違っている。クーパーは彼が4月初旬到着、約3週間後に同地を後にしたと述べている。ハーベル到着1787年1月出発3月または4月とし、彼が10週半にわたり同市に留まったとしている。『Regensburgische Diarium』(レーゲンスブルク日記)の中にこれに関する証拠がある。ベートーヴェン少なくとも母の健康状態のこともあってのボンへの帰郷急いでいた(彼の母は結核により同年7月死去している)。父のヨハンアルコール依存によりほとんど働くこともままならず2人の弟がいたベートーヴェン家族支えるために帰宅しなければならなかったのかもしれない。 ベートーヴェンのウィーン訪問に関する記述資料乏しい。2人作曲家出会っていた可能性もある。ハーベル考えた日程通りであれば、これが起こり得る期間として約6週間あることになる(モーツァルト1787年はじめの一部プラハ過ごした)。 19世紀伝記作家であるオットー・ヤーンベートーヴェンモーツァルトの前で即興演奏をして、モーツァルトを感心させたという逸話紹介している。ヤーンはこの話について証拠示しておらず、単に「ウィーン信頼できる筋から私に伝えられたことだ」と述べるに留まっている。ベートーヴェン同時代生きたイグナーツ・フォン・ザイフリートは、ベートーヴェンとモーツァルトとの出会い次のようなものだった記している(ただし、ザイフリート訪問1790年だったとしている)。 1790年ベートーヴェンウィーン短期滞在する。彼はモーツァルト聴き同地赴いたのであり、紹介状携えていた。ベートーヴェンモーツァルトの前で即興演奏してみせた。モーツァルト暗記した曲なのだろうと考えて関心なさそう様子聞いていた。その後ベートーヴェンはその特有の志によって、扱うべき主題要望した。モーツァルト疑いを含む笑み浮かべ、すぐに彼へ半音階的フーガ主題与えた二重フーガの「al rovescio(逆の)」となる対位主題明かさないままとなっていた。ベートーヴェン恐れことなく主題取り組み隠され意図直ち了解すると、非常な長さ驚くべき独自性力強さ示したモーツァルト注意はこれに釘付けとなり、驚嘆極まる幾人かの友人集う隣室静かに踏み入れ、輝く目でそこにいた者たちにこう囁いた。「この若者から目を離していけません、彼はいつかあな方に何か驚くようなことを伝えてくれるでしょう!」 しかし、現代の研究者はこの話にいくら懐疑的である。『ニューグローヴ世界音楽大事典』はこれに言及しておらず、ウィーン訪問に関する記事次のようになっている1787年初にベートーヴェンウィーン訪れた文書残されていないため、旅の目的やそれがどの程度果たされたのかついてはわからないままとなっている。しかし、彼がモーツァルト出会い数回レッスン受けたではないかという話については少々疑問思われる。 しかし、歴史家中にはモーツァルトとベートーヴェン出会いは全く信用ならないという者もいる。 モーツァルトとベートーヴェン伝記両方著したメイナード・ソロモンヤーン逸話触れておらず、モーツァルトベートーヴェンに対してオーディション行った上で不合格にしたかもしれないという可能性提唱してさえいる。 ベートーヴェンボンモーツァルト後継者となるべく[影響力のある貴族集まりから]特訓を受け、その目的前進させるべく(中略ウィーン送られた。16歳ベートーヴェンは、しかし、まだ独り立ち準備整えていなかった。父に急き立てられ若きヴィルトゥオーゾウィーンを後にし(中略肺病の母の状況に、そしておそらくモーツァルトからの拒絶にも意気消沈して自宅へと戻った。(モーツァルトは)従前より、やっかいな経済状況など、自身のことかかりっきりで、もう一人弟子を取ることを真剣に考慮することができなかったのではあるまいか。たとえそれが大いなる才能であり、著名なパトロン後ろ盾のある人物であってもである。 ソロモン続けて当時モーツァルト捕らわれていた事物列挙している。悪化するレオポルト健康状態プラハ訪問、『ドン・ジョヴァンニ』の作業開始、「その他大量音楽」の作曲である。これに加え、既にモーツァルト自宅住み込み門弟抱えていた。9歳ヨハン・ネポムク・フンメルである。 ベートーヴェン実際にモーツァルト会ってたかどうかを決定することはできないものの、彼がモーツァルト演奏聴いていた可能性それよりもより高い。ベートーヴェン弟子であるカール・チェルニーオットー・ヤーン対しベートーヴェン自分対しモーツァルトが「巧みな、しかし切れ切れ弾き方をした、『リガート』ではなかった。」と語ったいう。 ベートーヴェンモーツァルト会えたかどうかにかかわらず1787年訪問彼にとって不運な時期始まりとなったようである。『グローヴ事典』は次のように書いている。「(ベートーヴェンの)最古現存する手紙は[ウィーンへの]途上親しくなったアウクスブルク親族宛てたもので、その夏の気の滅入る出来事記されており、健康を害した[ことに並び]憂鬱中略)についてほのめかしている。」

※この「ベートーヴェンのウィーン訪問」の解説は、「ベートーヴェンとモーツァルト」の解説の一部です。
「ベートーヴェンのウィーン訪問」を含む「ベートーヴェンとモーツァルト」の記事については、「ベートーヴェンとモーツァルト」の概要を参照ください。

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