ベルリン国立歌劇場時代
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「オトマール・スウィトナー」の記事における「ベルリン国立歌劇場時代」の解説
1964年にはベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任し、1990年まで務めた。スウィトナー時代のシュターツカペレ・ベルリン(ベルリン国立歌劇場のオーケストラ)は、音楽監督の在任期間(26シーズン)、演奏旅行の数、録音の点数、聴衆の動員率などで過去の記録を大幅に上回ったうえ、ディスクの売れ行きも好調であった。さらに、スウィトナーは前任のコンヴィチュニーの路線を踏襲しつつ、新たなレパートリーを開拓したほか、西側の人材も登用した。インタビューにおいて、スウィトナーはシュターツカペレ・ベルリンのレパートリーについて以下のように述べている。 劇場ではドイツ・オペラを全般にわたって掘り下げることを優先させていますが、私は母がイタリア人ですから血の半分はイタリアで、イタリア・オペラは大変好きです。で、上演したい作品は沢山あります。が、ドイツ物はある程度アンサンブルでもってゆけますが、イタリア物は声が第一のいい歌手が絶対必要です。それには経済面がネックになる。また自国語上演が前提なので、その難しさも。イタリア語は言葉自体が歌に適し、とても声楽的な言語です。だから原語上演が最良ですが、その点でも現状ではちょっと難しいところがあります。私は日本語訳でのイタリア・オペラを観ていますが、語感はドイツ語よりも旋律にのっています。字幕も一つの解決策で、日本で試みられているこの方法もいっそう研究したいですね。 スウィトナー体制下のシュターツカペレ・ベルリンは、同じ都市で活動するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に比肩する存在としてみなされるようになったと言われている。音楽評論家の小石忠男は「シュターツカペレ・ベルリンもスウィトナーの時代に入ってから、従来の強固で重厚なアンサンブルに、透明度と柔軟性を加えた。彼らはおびただしいオペラ上演で交響的ともいえる見事な演奏を披露すると同時に、年間8回(各2夜)のシンフォニー・コンサートを国立歌劇場で開催した。その成果は数多くの録音に残されている」と評している。 ベルリンの壁が設けられたこともあって、この時代のシュターツカペレ・ベルリンは東側を代表するオーケストラとみなされるようになり、人事面などで国家からの介入が多くあったと言われている。また、スウィトナーは当時半ば禁止されていた現代音楽をプログラムに組み込んだため、当局と揉めることもあったという。ただしスウィトナーは東ドイツ財政を支える存在でもあり、1年で36000ポンドを稼いだとも言われている。なお、1988年のインタビューでスウィトナーは「1964年以来ですから、そろそろ離れようかと考えましたが、慰留されています」と述べている。。
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