ベルベルの春
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/25 23:30 UTC 版)
1980年、ティジ・ウズ大学(フランス語版)で行われる予定であったマムリの講演会が中止になったことをきっかけに、ベルベルの春(フランス語版)が起こった。マムリは講演会に向かう途中で憲兵に止められ、騒ぎが起こりそうだからという理由で中止を求められたのだが、かねてからアルジェリア政府によるアラブ化政策に反対し、アルジェリアの少数派民族ベルベル人の文化を尊重するよう求めていたティジ・ウズ大学の学生らは、中止の知らせを受けると、ベルベル文化に対する抑圧だとしてバリケードを張って大学を封鎖し、抗議運動を行った。この事件はカビリー地方の労働者を巻き込むゼネストに発展し、軍に弾圧されて、127人の死者を出す惨事となった。マムリは反体制派の首謀扱いをされ、「植民地主義の加担者」、「トラブルメーカー」、または比喩的に「放火を教唆する者」などと批判されたが、「ベルベルの春」は1962年の独立以来初の反体制運動であり、これによってベルベル文化復興運動と人権擁護の運動の口火が切られた。 この後アラブ化政策に対する国民の不満がさらに募り、1988年に食糧不足を機にアルジェリア全土の主要都市で10月暴動(フランス語版)が起こったとき、マムリは、1980年のベルベルの春で抗議運動を行った人々の声が聞き入れられていたら、1988年の惨事は回避できたはずだと語った。 マムリはアルジェ大学を退官した後、1982年、フェルナン・ブローデルが1963年に創設した人間科学館財団と社会学者・人類学者・哲学者のピエール・ブルデューの協力を得て、パリ6区にアマジグ研究所(CERAM)を創設し、1985年に機関誌『アワル(AWAL、「言葉」の意)』を創刊した(人間科学館財団刊行)。「ベルベル」が「野蛮人」を意味するギリシア語の「バルバロイ」に由来するのに対して、「アマジグ」はベルベル人(アマジグ人)の自称あるいは現地で公に使われている言葉である。カビリー=ベルベル文化の多様性・豊かさを紹介する『アワル』誌には、言語学者、作家、社会学者、歴史学者がアラビア語、フランス語、スペイン語の3か国語で寄稿した。学際的な研究発表の場であると同時に、詩を中心とした文学作品、さらには現代作家を紹介する場でもあった。マムリはこの活動の一環としてアマジグ語・アマジグ文学のセミナーやシンポジウムを開催し、社会科学高等研究院でも講演会を行い、1988年、こうした功績により、ソルボンヌ大学の名誉教授の称号を授与された。
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