プワシュフ収容所所長
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「アーモン・ゲート」の記事における「プワシュフ収容所所長」の解説
この「功績」でゲートは、1943年2月11日に「クラカウ(クラクフ)地区親衛隊及び警察指導者のプラショフ(プワシュフ)強制労働収容所」 (Zwangsarbeitslager Plaszow des SS– und Polizeiführers im Distrikt Krakau) の所長に任命される。親衛隊少尉クラスとしては異例の所長就任であるが、東部戦線の戦況悪化で人員が不足していたのがその原因とみられる。「親衛隊及び警察指導者の強制労働収容所」は強制収容所と違って統一的な規則がなく、所長であるゲートが絶対的権限を有した。所長就任に際しての囚人に向けた演説の中でゲートは「俺はお前たちの神だ。ルブリンで俺は6万人のユダヤ人を片づけた。次はお前たちの番だ」と述べた。 1943年3月13日から3月14日にかけて行われたクラクフ・ゲットーの解体もゲートが陣頭指揮をとっており、大勢のユダヤ人を殺害しつつ、働ける者は自らの強制収容所へと移送した。1943年7月には東部(ポーランド)親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーSS大将とクラクフ親衛隊及び警察指導者ユリアン・シェルナーSS准将から推薦を受けて二階級特進があり、親衛隊大尉 (SS-Hauptsturmführer) となった。 所長になったばかりの1943年春から夏にかけてはプワシュフ収容所は、ゲートの限界を知らぬ恣意的な殺戮によって支配されたという。身長193cm、体重120kgの巨漢であったゲートは、すぐにサディスト的性向を示し、毎朝狙撃銃で囚人を狙撃するなど恣意的殺人を行った。ゲートの命令一つで囚人に襲いかかる二頭の飼い犬(グレートデンの「ロルフ」とシェパードとシベリアオオカミの雑種という「ラルフ」)をよく連れ回し、囚人を襲わせる事も多かった。ゲートに直接殺害された囚人は500人以上にのぼり、そのため「プワショフの屠殺人」というあだ名をつけられることになった。 囚人を処刑したのちはその記録を逐一記録カードに収めた。これはその親類も残さず抹殺するという目的があり、収容所に不満分子が残ることを恐れたための措置であった。しかしプワシュフ収容所が親衛隊経済管理本部 (WVHA) 管轄の強制収容所 (Konzentrationslager) となった1944年1月以降にはゲートも恣意的な射殺を控えざるを得なくなったという。親衛隊経済管理本部は看守が奴隷労働力たる強制収容所囚人を恣意的に殺害することに目を光らせており、囚人の処刑・拷問には本部の許可を得ることを義務付けていたからである。 1944年4月20日には武装親衛隊予備役の親衛隊大尉となり、これによりゲートは軍人の将校に列した。ゲートはこれを大いに喜び、親衛隊人事本部長マクシミリアン・フォン・ヘルフ親衛隊大将からの辞令を自慢げに見せて回ったという。 ゲートは国庫に収められるべきユダヤ人から没収した財産を横領しており、その金で豪勢に暮していた。屋敷でパーティー三昧の生活を送り、毎週新しい靴を作らせ、自家用馬や自家用車を数台所有していた。プワシュフ収容所はブラシ、ガラス製品、繊維製品、靴の製造を行っていたが、いずれも戦争遂行に絶対的に必要な物とは言えなかったため、この収容所は常に閉鎖の危険があった。しかしまるまると肥っており、重い糖尿病を患っていたゲートは前線に送られることを嫌がり、なんとか贅沢三昧な生活を続けようとプワシュフ収容所の存続に努力していた。プワシュフ収容所は拡張を続け、1944年夏の時点では2万4000人のユダヤ人囚人と少数のポーランド人囚人を抱えていた。 ゲートは部下の親衛隊員に対しても冷酷に接し、ささいな罪状で親衛隊の規律委員会や警察に引き渡した。さらに自身はおおっぴらに闇取引を行った。彼の部下の親衛隊員たちは我慢の限界に達し、親衛隊捜査判事である親衛隊中佐コンラート・モルゲン(ドイツ語版)博士に訴状を送るに至った。その中には「我が軍の兵士が東部戦線で死んでいるのに、ゲートはパシャのように暮らしている」と書いてあった。
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