プリムス工房以前、またはチャンピオンの工房
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「ブリストル磁器」の記事における「プリムス工房以前、またはチャンピオンの工房」の解説
クックワーシーのプリマス工房は1770年にブリストルに移転され、その後1768年から株主であった商人、船主でブリストル在住のリチャード・チャンピオン(英語版)に移管された。チャンピオンのブリストル工房は1774年から1781年まで製造していたが、多額の損失を出したため、スタッフォードシャーの陶芸家たちに売却された。ブリストル磁器は、プリマス磁器と同様に硬質磁器であり、これらは「18世紀英国のどの軟質磁器よりも白く硬く、釉薬により築かれる冷たくざらざらした輝きは、ボウ(英語版)、チェルシー、ウースター、ダービーの焼き物とは一目で区別できるものであった」と伝承されている。 チャンピオンはこの工房に大きな関心を寄せ、磁器本体の品質を大幅に向上させるとともに、芸術的観点の発展にも携わった。ミシェル・ソッケと、後に銅版画のエナメル絵画で名が知られる前のヘンリー・ボーン(英語版)が中心となって、新古典主義の新しい様式が導入された。クックワーシーが東アジアの磁器を手本にしたのに対して、チャンピオンはマイセン磁器やフランス製の磁器をよく参考にした。装飾用の食器も製造されていたが、主に製造されていたのはお茶やコーヒーに使う贈呈用のカップで、地元のビジネスマンや政治家とその夫人用に製造されたものが多く存在し、中には1774年にはブリストル選挙区から選出の国会議員となったチャンピオンがエドマンド・バークの夫人、ジェーン・バークに返礼として磁器を贈呈した。 しかしながら、チャンピオンの他の事業が立ち行かなくなり、また磁器製造においてもすぐに利益を生み出さすことができなかったため、1778年の秋には新しい磁器の焼成は行わなくなったが、装飾されていない焼成済みの磁器がかなりの数を抱えていた。これらは後に装飾され、1782年まで販売され続けた。 プリマスと初期のブリストルの焼き物を見分けることは容易ではなく、一般的に作品を「クックワーシー」か「チャンピオン」の焼き物として分類することが一般的である。工房での製作を示す印は、多くの作品が無印であり、プリマスとブリストルの両方で、 (これは、錬金術で錫を表す記号であり、木星を表すときにも使用され、下絵付で青色に絵付された。)が使用されていたため、製作場所を断定できる作品は非常に限られている。この記号は、コーンウォールの主要な鉱産物であった錫を指しているとされる。また、"B"に青や金の十字架をあしらったマークは、ブリストルで製造された作品にのみ使用されたマークである。 チャンピオン時代の陶磁器ギャラリー 犬に驚く少年、 c. 1772–1775 秋の季節がやってきた、1770s エドマンド・バークに贈呈された受け皿、 1774 カップと受け皿、 c. 1775 ベンジャミン・フランクリンの胸像のプレート、ビスケット磁器(英語版)、 c. 1775 茶碗と茶托、c. 1775、ヘンリー・ボーン(英語版)による装飾 ダニエル・ラドローに贈呈された茶碗、コーヒーカップ、スプーン、受け皿、c. 1775–1778 ビスケット磁器(英語版)製の花のプレート、 c. 1776
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