ブルーグラスの起源とスター・モンローの最盛期
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「ビル・モンロー」の記事における「ブルーグラスの起源とスター・モンローの最盛期」の解説
モンローの音楽にキーとなる発展は、1945年の12月、ノースカロライナの天才的なバンジョー弾きアール・スクラッグス(Earl Scruggs)がBlue Grass Boysに加わったことで起こった。スクラッグスは独特の3本指でのピッキングスタイルで演奏し、すぐさまOpryの聴衆の間でセンセーショナルを巻き起こした。 彼は、普段"Cedric Rainwater"の名の下に活動しているボーカル・ギター、レスター・フラット(Lester Flatt)、フィドル、チャビー・ワイズ(Chubby Wise)、ベース、ハワード・ワッツ(Howard Watts)を含む完成度の高いグループに加わった。振り返ってみれば、Blue Grass Boysのこの顔ぶれは"ブルーグラスバンドの祖"と言われ、爆発的なテンポ、凝ったボーカルハーモニーの編曲、マンドリン、バンジョー、フィドルでのソロや"ブレーク"による、楽器の熟練した印象的な演奏を含んでいることから、モンローの音楽がついにブルーグラスを特徴づけるすべての要素を持ったのだと言える。 この時点で、モンローは残りのキャリアの間、彼のトレードマークとなるマンドリン、1923年GibsonF5モデル"Lloyd Loar"を手にしている。 1946年と1947年に、Blue Grass Boysで28曲がレコーディングされ、すぐにブルーグラスにおける古典となった。その中には"Toy Heart"、"Blue Grass Breakdown"、"Molly and Tenbrooks"、"Wicked Path ofSin"、"My Rose of Old Kentucy"、"Little Cabin Home on the Hill"そして、モンローの最も有名な曲である"Blue Moon of Kentucky"などがある。後にモンローはこの曲をエルヴィス・プレスリーがロックとしてのカバーすることを承認している。元々ワルツのようなスローバラードの曲で、実はプレスリーのカバーの後、途中からより速い4拍子に転じる曲にアレンジしなおしてヒットしたのだった。 Flatt、Scruggs両者とも1948年初めにモンローのバンドを去り、すぐに彼ら自身でFoggy Mountain Boysを組んだ。そして、1950年代と60年代に"Foggy Mountain Breakdown"、"Cabin on the Hill"、"The Ballad of Jed Clampett"といったヒットを飛ばして商業的に目覚ましい成功を収めている。モンローはリードボーカルとリズムギターのジミー・マーティン(Jimmy Martin)、バンジョーのルディ・ライル(Rudy Lyle、フィドルにチャーリー・クライン(Charlie Cline)、ボビー・ヒックス(Bobby Hicks)、バッサー・クレメンツ(Vassar Clements)をフィーチャーしてBlue Grass Boysを再編成した。このバンドは、"My Little Georgia Rose""On and On"、"Memories of Mother and Dad"、"Uncle Pen"やインスト曲"Roanoke""Big Mon""Stoney Lonesome""Get Up John"マンドリンフィーチャーの曲である"Raw Hide"など、ブルーグラスの古典の数々をレコーディングした。また、en:Stanley Brothers が一時的に解散していたとき、カーター・スタンリー(en:Carter Stanley)がギターリストとして1951年の短い間、Blue Grass Boysに加わっていた。 1953年1月16日、モンローは車の事故で大けがを負った。彼とBluegrass Boysのベース弾きであるバッシー・リー・マールディン(Bassie Lee Mauldin)がナッシュビルの北でキツネ狩りをして帰ってきているときのこと、ホワイトハウス近くで飲酒運転の車に衝突されたのだった。背中、左手、鼻を負傷したモンローはナッシュビルの総合病院に運ばれた。そして回復して、再開するまで、4か月を要したのだった。 この間、チャーリー・クラインとジミー・マーティンはともにバンドを守っていた。 しかし、1959年後半まで、モンローは商業的な成功という点ではうまくいっていなかった。ロックの興隆とカントリーミュージックの主流に"ナッシュビル・サウンド"が発展してきたということがブルーグラスの発展可能性への脅威を物語っていた。 en:Grand Ole Opryを支えにしながらも、モンローはシングルチャートにおける成果の落ち込み、ライブの要望の減少に直面するなかで、なんとかバンドを守ろうとしていた。
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