ブラシュカ模型
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 22:53 UTC 版)
1863年にドレスデン州立動物博物館の学芸員だったルートヴィヒ・ライヒェンバハ(Ludwig Reichenbach)がブラシュカの展覧会で精巧な花のガラス作品を見て、それまで再現に苦慮していた生物の模型制作をブラシュカに依頼した。水生生物の12の生物模型の注文を受け、書物の図版をもとに製作し、高い評判を得た。博物館や水族館、大学などの教育機関に保存の難しい水生無脊椎動物のガラス模型の販売を始めた。図版や、写真やロウ細工による展示や教育に比べて大きく進歩した方法であると評価された。製作する生物の範囲はしだいに広がり、自宅に水槽を作り、模型にする生き物の生きている状態を観察した。 1876年、ルドルフは父親の仕事を手伝い始め、その頃、131種のウミウシやクラゲなどの生物模型をボストンの自然史博物館協会(Boston Society of Natural History Museum)のために製作した。この模型をハーバード大学植物博物館の設立準備をしていたジョージ・グーデール(George Lincoln Goodale)が見て、グーデールはブラシュカの元を訪ずれ、植物モデルを作ることを要請した。この仕事のためにブラシュカは植物について研究し、新しい製作技術を開発しなければならなかった。 最初にアメリカに送られた模型のいくつかは輸入手続で損傷をうけたが、グーデールはそれを公開し、観客のなかの篤志家がブラシュカと長期契約を結んで、植物模型の製作するための資金提供を申し出た。1887年に契約は結ばれ、ブラシュカは仕事の時間の半分を標本館の仕事に費やすことになった。模型は破損をふせぐために大学へ直送され、税関の職員の立会いのもとで、館員が包装を解くようになった。1890年に契約は10年間延長され、報酬は年間8800マルクであった。、 ブラシュカの植物模型(ハーバード標本館に展示され"Glass Flowers"と呼ばれる)は透明ガラス、着色ガラスを駆使し金属で針金で補強されている。多くの作品はルドルフが着色した。ドレスデンでは見られない植物を製作するために、ピルニッツ宮殿の庭園やドレスデン植物園に通い、いくつかの種子を送ってもらって、自ら栽培した。ルドルフはカリブ海やアメリカに渡り、図版をつくった。2度目のルドルフのアメリカ旅行中にレオポルドは没し、その後の仕事はルドルフが一人で続けた。高品質のガラスの入手のためにガラス材料も自作するようになった。1938年まで、植物模型の製作を続け、標本館のために3000の模型を制作し、780は実物大で残りは細部が見られるように拡大された大きさで製作された。
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