バティの国際法観および国際関係観
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「トマス・バティ」の記事における「バティの国際法観および国際関係観」の解説
第一次世界大戦後、国際連盟ができたことに伴い、国際法は、慣習や理性に基づく諸権利に係る諸原則に立脚する主権の論理に比し、国際的なフォーラムにおける諸国家の実態(practice)に、より関心を寄せるようになった、しかし、バティはこのような考えに与しなかった。 彼は1930年に 上梓した"The Canons of International Law"(国際法の規準)という著書の中で、あらゆる国際法が抱かなければならない規準として、単純性、確実性、客観性、弾力性の4つを挙げている。 バティの国際法観は当時の潮流からしてみれば異端であったが、彼のこのような国際法観を基礎にした国際関係におけるアプローチの仕方は前述したように先駆的であったと言える。そのような国際法観に立脚して、日本と中国に係る国際法的諸問題について日本を擁護する議論を展開していった。そしてまた、日本政府も1931年に満州事変が起きると、「(1920年代の中国について)中国全体の当局ないし統一的コントロールをする主体が存在しないことから、国際法的には特定の中国政府に着目して他国が中国の国家承認を行うことはできない」とするバティの国際法観を援用し、国際連盟に訴えたのである。 バティは前述した『国際法の規準』(1930年発表)の中で、「当時の中国は『記憶と待望』の中に存在する地理的表現に過ぎず、主要な政権だけで南京の国民党政権と奉天(Mukden)の張作霖軍閥政権の二つがあり、その二者間で内戦が行われていた中にあって、中国の領域は法的には誰のものでもなく、日本には、現地の日本人を保護するために中国の特定の地域に軍事介入する権利はもとより、欲すればその地域を併合する権利さえある」という論理を展開したが、その論理を日本政府は満州事変に用いた。 つまり日本政府側は、中国は国家としての体を為していないのだから、満州を中国より分離せしめる日本側の行動は、中国の保全を是認するところの九カ国条約に違背するものでもなく、いわんや国際連盟規約やその他の恒久的協定や条約に違背するものではない、と主張した。 しかし、リットン報告書はこのような日本側の主張を退けたので、バティは、この報告書に対する日本政府の反論を、事実上一人で書き上げることになり、また翌1932年には、日本による満州国の承認が、中国の一体性の保持を謳った1922年の九カ国条約の違反にはあたらない、という日本政府の報告書も書き上げた。 以上が、彼が日本の対支政策を国際法に照らし合わせて論じる際に用いた、自身の国際法観と国際関係観の概要である。 しかし、これは前述したように、当時、日本の対中国政策の是非を問う際に論じられたところの法律論的な側面にすぎないことに注意しなければならない。これだけでは、なぜバティが日本に対し強いシンパシーを抱いていたのかがわからないばかりではなく、彼を誤解する危険性が生じてしまうからである。 以下における項目は当時行われていた議論の違う側面に焦点をあてる事によって、なぜバティを含む一部のイギリス人が日本の対中政策に共感を示したのかを明らかにした上で、バティの親日的行動の背景を婉曲的に補完するものである。
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