ハトシェプスト女王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:35 UTC 版)
「エジプト第18王朝」の記事における「ハトシェプスト女王」の解説
トトメス1世が死去すると、トトメス2世(前1518年 - 前1504年)が即位した。彼はトトメス1世の息子であり、彼の二人の兄が夭折していたため王位を継承することになった。しかしトトメス2世は病弱であったうえ、彼の母ムトネフェルト(英語版)は側室であり血統的正統性は磐石とは言い難かった。このためトトメス1世と正妃イアフメスの間に生まれた子供の中で唯一生きていたハトシェプストを正妃として迎え、王位継承の正統性を強化しようと努めた。 トトメス2世は病弱とは言え有能な指導者であり、ヌビアでの反乱鎮圧などでは大きな成果を挙げていたが、宮廷内の問題、特に王位継承に関するそれは彼の思うようには運ばなかった。トトメス2世は側室イシス(英語版)との間にもうけていた王子トトメス3世に王位を継がせたいと考え、トトメス3世を後継者に指名した。 トトメス2世が死去すると、彼の遺言通りにトトメス3世(前1504年 - 前1450年)が即位した。しかし彼はまだ幼く、ハトシェプストは摂政(共同統治者)として実権を握った。共同王とは言っても、トトメス3世の存在は無視され、事実上ハトシェプスト(前1498年 - 前1483年)が全ての権力を握った。ここにエジプト史上初めて実質的な最高権力を女性が握ることになる。 ハトシェプスト時代は目立った対外遠征が行われておらず、大きな反乱もなく長い平和が続いた。この平和の中でエジプトの国力は拡大を続けており、数世紀ぶりにプント国(現在のソマリア地方)などアフリカ方面へ大規模な交易隊が派遣された。これをはじめとして貿易活動は極めて活発化し、数々の建築や芸術も花開いた。特にハトシェプストが自らのために作らせた巨大な墓、いわゆるハトシェプスト女王葬祭殿は古代エジプト建築の偉大な成果の1つである。 ハトシェプスト女王葬祭殿他、新王国時代の遺構についてはエジプト新王国を参照 ハトシェプストがその力を大いに発揮していた時代、共同王であったトトメス3世がどのように生活していたのかほとんど記録に残されていない。その後ハトシェプストは50歳前後で病死することになるが、その後即位したトトメス3世はハトシェプスト女王の記録を抹殺することに全力を挙げた。ハトシェプストが建てた多くの記念建造物からその名が削り取られ、ハトシェプストの彫像や彼女の側近の墓はその多くが破壊された。以後、王名表などの歴史記録にはハトシェプストは正式の王としては記載されなくなるのである。 この行動については諸説あるが、大きく以下の二つに分かれる。 トトメス3世はハトシェプストを簒奪者と見なしており、その恨みからくるもの。 ハトシェプストは「トトメス3世が成人するまでの繋ぎ」を自覚しており、確執は存在しなかった。しかしながら『女のファラオが存在した前例』を残す訳にもいかず、やむなく存在を抹消した。
※この「ハトシェプスト女王」の解説は、「エジプト第18王朝」の解説の一部です。
「ハトシェプスト女王」を含む「エジプト第18王朝」の記事については、「エジプト第18王朝」の概要を参照ください。
- ハトシェプスト女王のページへのリンク