ハディースの「権威化」におけるシャーフィイーの影響
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「ハディース批判」の記事における「ハディースの「権威化」におけるシャーフィイーの影響」の解説
ムハンマドの死後、1世紀半ほど経ち形成され始めた、初期のイスラム法学派やその学者たちの間においては、ムハンマドのスンナとその根拠であるハディース(当初はムハンマド以外の初期ムスリムの言行を報告するためにも使われていた)の重要性について、総意が形成されていたわけではない。「アハル・ラッユ(Ahl al-Ra’y)」として知られる、合理的な裁量をイスラム法源として導入する流派の中では、ムハンマドのスンナを多くの法源の1つにすぎないという考え方も存在した。他の法源には、カリフや主要な初期ムスリムの伝統などがある。また、「アハル・カラーム(Ahl al-Kalām)」として知られる、思弁的な神学者たちは、ハディースの権威を否定した。彼らは、ムハンマドの言行や承認についての1世紀半前の報告の信憑性を完全に確証させることは不可能と考えたからである。 古典的なイスラム法学における、ハディースの最たる重要性を確立させたのは、スンナ派のシャーフィイー法学派の創始者シャーフィイー(西暦767-820)である。 シャーフィイーは、ハディースについてこう説く。 「預言者からの伝承については、それを裏付けるものであろうと、矛盾するものであろうと、いかなる人物の発言も意味を成さない。もし預言者からの伝承を知っていたならば、いかなる人物であれ、それに従ったはずであろう」。 米コロンビア大学のイスラム法専門家ジョセフ・シャハトや、ダニエル・W・ブラウンをはじめとする多くのイスラム学者は、イスラム法学におけるハディースの権威性は、最初期のムスリムによる総意ではなく、その後、後世に受け継がれたものであると指摘する。Schachtによれば、シャーフィイーが著作の中でハディースの重要性を主張し続ける必要性を感じていたということは、当時現れた「逸脱者・異端者」を非難する目的ではなく、自らの主張がまだ教義上多数派を形成しておらず、それを定着させるための努力が必要であったことを示唆しているという。 ムスリムはムハンマドに従わなければならず、そのスンナに倣うべきとする信条は、クルアーンの3:32、5:92、24:54、64:12などの章句に由来する。 ハディースはヒジュラ歴3世紀頃まで口伝で伝えられており、ムハンマドの実際の教えや行動をどれだけ忠実に、また精神的に踏襲しているか疑問視する声もあったが、シャーフィイーは「ムスリムは預言者に従うことを命じられている以上、神は必ずその手段を用意しているはずだという単純な命題を用いて」、ハディースに従わなければならないと主張した。 シャーフィイーはスンナを神の啓示(wahy)とみなし、その記録(ハディース)を古典的なイスラム法(シャリーア)における基礎としたが、最も主要な法源であるクルアーンの中では法に関する章句が比較的少ないにも関わらず、ハディースは宗教的義務の詳細(サラートのためのグスルやウドゥといった沐浴方法など)から、正しい挨拶の仕方、奴隷への慈悲の重要性 まで、あらゆることについて指示を与えている。ジョナサン・AC・ブラウンによれば、「イスラム神学と法学の全系は、主にクルアーンを由来とするものではない。ムハンマドのスンナは第二の、しかしはるかに詳細な啓典とされ、後世のイスラム学者は預言者をしばしば『二つの啓示の持ち主』と呼ぶようになる」。 シャーフィイーの功績により、後世の学者は「スンナが預言者の言動に由来するもの以外であると疑うことはほとんどなかった」が、後世のハディース批判者は、シャーフィイーの理論に対抗し、初期の学派と同様の主張をすることもあった(例えば、クルアーンのみが神の啓示であるとする説など)。
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