ノンストップ特急運転開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:10 UTC 版)
「小田急ロマンスカー」の記事における「ノンストップ特急運転開始」の解説
終戦後の1946年には大東急で「鉄軌道復興3カ年計画」が策定されたが、この中には小田原線の箱根登山鉄道への乗り入れ計画が含まれていた。また、終戦の時点では新宿から小田原までは2時間30分もの所要時間を要していたが、五島慶太は終戦直後にこの所要時間を半分にするように指示していた。 1948年6月1日に大東急から小田急が分離独立したが、小田急は東急と比較すると営業路線長は約2倍あったにもかかわらず、運輸収入は半分に過ぎなかった。そこで、収入増の方策として箱根への直通旅客増加を図ることとなり、その一環として新宿と小田原をノンストップで結ぶ特急列車の運行が計画された。複数車種で試運転などを行った結果、この特急に使用される車両として1600形の中から「復興整備車」として重点的に整備されていた車両が指定され、特急料金の制定や各種ポスターの製作など準備が行われた。 こうして、1948年10月16日から新宿と小田原を結ぶ特急列車の運行が開始された。土曜日は下り1本のみ、日曜日は下り1本・上り2本のみの運行で、所要時間は100分であった。使用車両は、朝ラッシュ時の通勤輸送に使用した1600形が入庫した後に、3つある乗降用扉のうち真ん中の扉を締め切った上で補助座席を置き、ロングシートに白いカバーをかけた上でスタンド式灰皿を並べただけであったが、戦後の復興途上だったこの時期においては精一杯のサービスであった。当初計画では同年10月9日から運行開始の予定であったが、豪雨の影響で箱根登山鉄道線が不通になってしまったために1週間延期されている。 運行開始当初は集客がうまくいかず、運輸部門では縁故を通じて乗客の勧誘に歩き回り、駅の出札窓口でも積極的に特急列車の売り込みを行った。乗客が少ない時には、本社勤務の社員が「サクラ」となって乗車したりしたこともあったというが、次第に利用者が増加し、予想を上回る好成績となった。 なおこのころには、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として設置された輸送改善委員会において、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されている。
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