ノルウェーの危機への対応とベルゲン学派の設立
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「ヴィルヘルム・ビヤークネス」の記事における「ノルウェーの危機への対応とベルゲン学派の設立」の解説
ノルウェーではベルゲンにベルゲン大学地球物理学研究所を作ることになり、ヴィルヘルムはそこの教授に招請された。第一次世界大戦でドイツでの研究環境は悪化し、弟子も多くが兵士に招集されてしまった。ヴィルヘルムは1917年に息子のヤコブとゾルベルクの二人の助手を伴って母国ノルウェーへ戻る決心をした。ところが帰国してみると、ノルウェーは戦争に中立だったにもかかわらず食糧は配給制になるなど母国は危機に瀕していた。また風上にあるイギリスの気象情報が軍事機密となり、農業や漁業などの基幹産業のための気象情報は大きな制約を受けていた。1918年に入るとノルウェーは食糧不足によって遠からず飢饉に見舞われることが予想された。気象予測の改善による産業への支援は緊急の課題となっていた。 ヴィルヘルムは直ちに母国を救う決断をした。それは自身の研究を「将来の実現を見据えた気象予測の科学化」から、「直ちに使える気象予測の技術開発」へと転換させることだった。イギリスからの北海周辺の気象情報を補って農業などへの予測精度を確保するためには、国内の観測地点数の大幅な増加が不可欠だった。海軍の沿岸監視哨の支援を得て、それまで西ノルウェーに3つしかなかった電報による観測地点は、6月末には60か所になった。 夏季の農繁期の予報に備えて、実験的な予報はその前から始まっていた。ベルゲン大学地球物理学研究所は、アカデミックな科学の府から毎日の天気予報を行う予報センターへと変貌した。それまで気象観測地点は100 km以上離れていることが多く、気象観測の頻度も多くて1時間に1回程度であったが、それでは総観規模より細かな構造を持った気象を体系的に捉えることは困難だった。しかしヴィルヘルムは、約10~20 km毎という細かな密度で気象観測地点を配置した。それとともに観測方法も変えた。それまで定時に測定器の値を読んで記録するだけだった観測に目視による雲の観測を加えた。当時高層気象観測は気球に付けた測定器を回収しなければならず、即時の観測は不可能だったが、地上から上空の雲の様子を継続的に観察することによって上層大気の状態を推測しようとした。これはその後、気象観測所が高台や見晴らしの良い場所に置かれる始まりとなった。 このときベルゲン大学地球物理学研究所でヴィルヘルムの下で研究と予報を行ったのが、当時新進気鋭の若者であったヤコブ・ビヤークネス、ゾルベルク、ベルシェロンであり、後にビョクルダル、ロスビー、パルメン、ペターセンらが加わった。このこれまでにない密な気象観測網と目視による高層気象観測による結果を、物理学の素養を持った若者たちが解析したことから、低気圧の発達・消滅、前線、寒帯前線論、気団論など全く新しい気象学が生まれた。彼らは気象学のベルゲン学派(ノルウェー学派)と呼ばれている。
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