ニューディール政策以降のノースカロライナ州
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「ノースカロライナ州の歴史」の記事における「ニューディール政策以降のノースカロライナ州」の解説
1930年代以降の期間、ノースカロライナ州の教育と製造業の中心としての評判は成長し続けた。第二次世界大戦中、ノースカロライナ州はアメリカ軍に向けて多様な製品を供給した。繊維製品については合衆国のどの州よりも多かった。ノースカロライナ州はその優秀な大学でも知られるようになった。主要3大学が州内研究三角形を作っている。すなわちノースカロライナ大学チャペルヒル校(1789年認可、1930年代から大きく拡張)、ノースカロライナ州立大学およびデューク大学(1924年再認可)である。 1931年黒人選挙人同盟が投票権登録を進めるためにローリーで結成された。ローリーには教育を受け、政治的に洗練された黒人中流階級がいた。1946年までにこの同盟は、人種差別の激しい南部で、7,000人の黒人を選挙登録させることに成功した。 アフリカ系アメリカ人のための人種差別撤廃と公民権復活の動きは州全体で続いた。1960年、州内人口の約25%はアフリカ系アメリカ人であり、1,114,907の市民が完全に権利を保障されないままに生活していた。1960年2月1日に、アフリカ系アメリカ人大学生がグリンズボロのウールワースのランチカウンターでシットインを始めた。これがアメリカ南部中で模倣的シットインの波を起こした。学生達は数ヶ月間散発的にシットインを続け、遂に7月25日、ウールワースの店で飲食することを許された。公共施設での差別撤廃が続いた。 南部中の州で活動が続き、アフリカ系アメリカ人の道徳的指導者達が1964年の公民権法と1965年の選挙権法の成立を勝ちとった。州全体でアフリカ系アメリカ人が完全に政治的生活に参加し始めた。1973年10月、クレアレンス・ライトナーがローリー市長に選ばれた。これは一般選挙で選ばれた市長として、最初の黒人市長であり、白人多数の都市で市長に選ばれた最初のアフリカ系アメリカ人でもあった。 1971年ノースカロライナ州としては3回目の改訂州憲法が批准された。この憲法に対する1997年の修正条項で、州知事に大半の法案に対する拒否権を認めた。
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