ドルトムントでの政治活動
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「ローザ・ブフタール」の記事における「ドルトムントでの政治活動」の解説
ドルトムントは、19世紀の最後の四半期に成長して、1900年には14万2千人の人口を擁する大都市となり、多くの政治活動の中心地となった。まだ女性には参政権はなかったが、ドルトムントの女性は社会的にも政治的にも活発で、グループを形成していた。1908年、ローザ・ブフタールらは「自由主義女性協会」を結成した。その2年後、彼女はその会長になった。このグループは、兵役を支持する強い保守的価値観を持っていたが、死刑廃止を主張していた。公務員の独身制(女性が結婚すると公務員としての地位を失う)や道徳条項(男性に事実上の白紙委任を与える)に反対し、動物福祉や認知症患者の権利を求める運動を展開した。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、コーヒー事業は業績が悪くなり、ローザは政治の世界に入ることを決意した。1915年にはドルトムント商工会議所の女性職業紹介所の所長となり、1918年には「社会補助官」となった。戦後、1919年にドイツ国で初めて女性に選挙権が認められた。彼女はドイツ民主党(DDP)に入党し、ドルトムント代表となった。1919年10月27日に市議会議員となった。1925年まで、女性の市議会議員は彼女だけだった。1925年に再選された。 1933年にナチズムが政権を握った時、ドルトムントの人口のうちユダヤ人はわずか1%だった。彼女の息子アルノルトは法律を学び、ドルトムントの判事をしていた。1933年、彼はナチスによってその職を失った。同年9月16日、アルノルトには次女のヴェラが誕生した。1939年7月、アルノルト夫妻は娘のレナートとヴェラをキンダートランスポート(英語版)でウィーンからイギリスへ送った。ヴェラは後のステファニー・シャーリーであり、1962年にヨーロッパ初となる全社員が女性のソフトウェア会社を設立し、大英帝国勲章デイム・コマンダーとコンパニオン・オブ・オナー勲章(英語版)を受章した。アルノルトは第二次世界大戦を生き抜き、ヘッセン検事総長となり、1957年にはダルムシュタットで判事を務めた。
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