ドイツからの逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:51 UTC 版)
「リーゼ・マイトナー」の記事における「ドイツからの逃亡」の解説
1933年、アドルフ・ヒトラーが政権をとると、研究所は大きな影響を受けた。ユダヤ人であった所長のフリッツ・ハーバーは辞職し、マイトナーも9月に教授職を解かれた。マイトナーは亡命も考えたが、この時はドイツに残ることにした。プランクらからドイツに残るようすすめられたし、自身も、これまでドイツで築き上げた実績を捨てて、55歳にしてまた一から新たな生活を始めることには躊躇していた。また、マイトナーはオーストリア人であったため、ナチスの支配下にはないことも大きな理由であった。 1934年、マイトナーは、ウランに中性子をぶつけることでウランより原子量の大きい原子(超ウラン原子)を生み出せるという、エンリコ・フェルミの論文を読み、非常に興味を持った。これを確かめるには物理だけでなく化学からのアプローチが必要だと考えたマイトナーは、ハーンに再び共同研究を持ちかけた。数週間後、ハーンは了解し、マイトナー、ハーン、そして研究所の助手であったフリッツ・シュトラスマンの3人による共同研究が始まった。 この研究途中の1938年、オーストリアはドイツに併合された。そのためマイトナーはドイツ人となり、ナチスによる影響を直接受けることとなった。ナチス党員のクルト・ヘスは、「ユダヤ人の女が研究所を危うくする」とマイトナーを糾弾した。 そんな中で、ハーンはカイザー・ヴィルヘルム協会の財務担当理事であるハインリヒ・ヘールラインと、マイトナーの今後について話し合いをおこなった。3月22日、マイトナーはハーンから、ヘールラインの見解を聞いた。それは「マイトナーは辞職すべきだ」というものであった。マイトナーは深く悲しみ、ハーンに対し「私を見殺しにした」「私にはどこにも行くところがない」と語った。 自らの身の危険を感じるようになったため、マイトナーは5月に亡命を考えた。この時、パウル・シェラー、ニールス・ボーア、ジェイムス・フランクから、それぞれスイス、デンマーク、アメリカへの亡命の誘いがあった。その中でマイトナーは、ボーアや甥のオットー・フィリッシュのいるデンマークの研究所に魅力を感じた。しかし、オーストリアはドイツに併合されていたため、デンマーク領事館ではオーストリア国民のパスポートは無効であると突き返された。新しいパスポートはカイザーヴィルヘルム研究所の出資者であるカール・ボッシュらの助けを借りて申請を行ったが、発行手続きは遅れ、最終的には、著名なユダヤ人の渡航は認められないと発行を拒否された。これはハインリヒ・ヒムラーの見解であった。 出国を禁じられ、しかもナチスに目をつけられた形となったマイトナーは、ただちに国を出なければならないと感じた。この事を知ったオランダのディルク・コスターはマイトナーを助けようと寄付を集め、マイトナーの職も探そうとした。そしてベルリンの様子を確認するため、自らマイトナーの元を訪れ、必要ならば連れて帰ろうとした。一方マイトナーは、スウェーデンのマンネ・シーグバーンの新しい研究所からのオファーがあることをボーア経由で聞いた。両者を検討した結果、マイトナーはスウェーデンで働くことを決めた。 7月12日、研究所で仕事を終えたマイトナーは荷造りを済ませ、ハーンの家に泊まった。ハーンからは、緊急の時に必要なものに変えればよいと、母の形見の指輪を贈られた。翌日マイトナーはコスターと共にいったんオランダのフローニンゲンへと亡命し、8月1日にスウェーデンへと移動した。このときのドイツ脱出にあたっては、休暇旅行との嘘の名目でドイツを立った。なお、脱出の途中の列車内では、マイトナーはナチスの国境警備隊にパスポート(期限が切れて無効となっていたもの)を検分されてしまっている。これは、後年にマイトナーが生きた心地がしなかったと述べていたほどの絶体絶命の事態であった。しかし、パスポートが期限切れになっていることを見落としたのかマイトナーに目こぼしをしたのか真相は不明だが、警備隊員はマイトナーの出国を認め、マイトナーは無事にオランダへ脱出することに成功したのであった。
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