ディーン通りで赤貧生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:33 UTC 版)
「カール・マルクス」の記事における「ディーン通りで赤貧生活」の解説
ラッサールら友人からの資金援助でイギリスへの路銀を手に入れると、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国した。この国がマルクスの終生の地となるが、入国した時には一時的な避難場所のつもりだったという。 イギリスに到着したマルクスは早速ロンドンでキャンバーウェル(英語版)にある家具付きの立派な家を借りたが、家賃を払えるあてもなく、1850年4月にも家は差し押さえられてしまった。 これによりマルクス一家は貧困外国人居住区だったソーホー・ディーン通り(英語版)28番地の二部屋を賃借りしての生活を余儀なくされた。 プロイセン警察がロンドンに放っていたスパイの報告書によれば「(マルクスは)ロンドンの最も安い、最も環境の悪い界隈で暮らしている。部屋は二部屋しかなく、家具はどれも壊れていてボロボロ。上品な物は何もない。部屋の中は散らかっている。居間の真ん中に油布で覆われた大きな机があるが、その上には彼の原稿やら書物やらと一緒に子供の玩具や細君の裁縫道具、割れたコップ、汚れたスプーン、ナイフ、フォーク、ランプ、インク壺、パイプ、煙草の灰などが所狭しと並んでいる。部屋の中に初めて入ると煙草の煙で涙がこぼれ、何も見えない。目が慣れてくるまで洞穴の中に潜ったかのような印象である。全ての物が汚く、埃だらけなので腰をかけるだけでも危険だ。椅子の一つは脚が3つしかないし、もう一個の満足な脚の椅子は子供たちが遊び場にしていた。その椅子が客に出される椅子なのだが、うっかりそれに座れば確実にズボンを汚してしまう」という有様だったという。また当時ソーホー周辺は不衛生で病が流行していたので、マルクス家の子供たちもこの時期に三人が落命した。その葬儀費用さえマルクスには捻出することができなかった。 それでもマルクスは毎日のように大英博物館図書館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強していた。のみならず秘書としてヴィルヘルム・ピーパーという文献学者を雇い続けた。妻イェニーはこのピーパーを嫌っており、お金の節約のためにも秘書は自分がやるとマルクスに訴えていたのだが、マルクスは聞き入れなかった。また、レイ・ランケスターといった博物館関係者とも親交を得た。 生計はフリードリヒ・エンゲルスからの定期的な仕送り、また他の友人(ラッサールやフライリヒラート、リープクネヒトなど)への不定期な金の無心、金融業者から借金、質屋通い、後述するアメリカ合衆国の新聞への寄稿でなんとか保った。没交渉の母親にさえ金を無心している(母とはずっと疎遠にしていたので励ましの手紙以外には何も送ってもらえなかったようだが)。 しかし1850年代の大半を通じてマルクス一家はまともな食事ができなかった。着る物もほとんど質に入れてしまったマルクスはよくベッドに潜り込んで寒さを紛らわせていたという。借金取りや家主が集金に来るとマルクスの娘たちが近所の子供のふりをして「マルクスさんは不在です」と答えて追い返すのが習慣になっていたという。
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