タンネンベルクの戦いとは? わかりやすく解説

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タンネンベルクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 23:59 UTC 版)

マックス・ホフマン」の記事における「タンネンベルクの戦い」の解説

1914年第一次世界大戦勃発すると、東プロイセン防御担当する第8軍参謀任命された。シュリーフェン・プラン基づいて、まずは西部戦線戦力集中したドイツにとって、ロシア軍予想以上に早く兵士動員完了させたことは大きな脅威であった東プロイセン防衛するために配置されたのは第8軍の1個軍のみであり、ロシア第1軍および第2軍相手にしなければならなくなったロシア軍グンビンネン戦いにおいてドイツ軍初戦での勝利を収めプロイセンへの侵入開始した圧倒的な規模を誇るロシア軍恐れをなした第8軍司令官マクシミリアン・フォン・プリトウィッツ(ドイツ語版)は、全部隊のヴィスワ川までの撤退命令したこの方針によって東プロイセン放棄されることを知ったドイツ参謀本部は、プリトウィッツを免職し新たな司令官パウル・フォン・ヒンデンブルクを、さらに参謀長としてエーリヒ・ルーデンドルフ任命した新たな司令部到着するまでの間に、ホフマン無電傍受から重要な事実つかんでいた。東プロイセンの東と南から進撃しているロシアの2個軍は、互いにほとんど意思疎通行っていなかったのである。この理由として、それぞれの軍の司令官アレクサンドル・サムソノフパーヴェル・レンネンカンプ個人的に険悪な仲であり、日露戦争中には奉天駅前で殴り合いをしたこともあるなどという風説存在するホフマン東方第1軍放置して、南から進撃するサムソノフ率い第2軍包囲する計画立案した。この計画司令部到着したヒンデンブルクルーデンドルフによって承認され実行移された。続いて発生したタンネンベルクの戦いにおいてロシア第2軍壊滅的な打撃を受け、サムソノフは戦場自殺した。 この戦い勝利した第8軍は、東プロイセン張り巡らされていた鉄道利用して部隊再配置し、第1軍攻撃した第一次マズーリ湖攻勢によってロシア第1軍プロイセンから撤退し開戦初頭ドイツの危機間一髪の所で回避されることになった

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タンネンベルクの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:40 UTC 版)

エーリヒ・ルーデンドルフ」の記事における「タンネンベルクの戦い」の解説

東部戦線でプリトヴィッツ上級大将率いドイツ第8軍敗れたのを機にプリトヴィッツは更迭され東部戦線ルーデンドルフ少将任せることが決定した。しかしルーデンドルフ勤続年数から軍司令官就任資格がなく、参謀長にしか任命できなかった。そのため第8軍司令官には既に退役していたパウル・フォン・ヒンデンブルク大将就任しルーデンドルフはその補佐役の参謀長就任したこの二人第一次世界大戦通じてコンビ組み続けたが、二人の関係では常にルーデンドルフ頭脳であり、ヒンデンブルクお飾り存在であったルーデンドルフ8月23日夜にマリーエンブルク第8軍司令部着任し先任第8軍作戦参謀マックス・ホフマン中佐とともに反撃作戦指揮した損害補給不足の影響ロシア第1軍がしばらく動かないことを電信傍受掴んでいたドイツ第8軍は、大部隊と見せかけ第1騎兵師団だけをロシア第1軍正面残し、またタンネンベルク付近第20軍団ロシア第2軍に当たらせている間に他の各軍団・師団ロシア第2軍左翼と右翼移動させた。8月26日ドイツ第8軍ロシア第2軍攻撃開始しフランソワ大将率い第1軍団左翼から、マッケンゼン大将率い第17軍団は右翼からロシア第2軍背後回り込み8月29日早朝には同軍を包囲することに成功したロシア第2軍20万人のうちロシアへ帰国することが出来たのはわずか1万7000人だった。 西部戦線から引き抜かれた2個軍団新たに第8軍加えられ9月5日からロシア第1軍への攻撃開始した。4個軍団ロシア第1軍正面から攻撃をかけるとともに第1軍団第17軍団にロシア第1軍左翼に当たる湖沼地帯突破させ、その背後回りませようとした。ロシア第1軍司令官レンネンカンプは第2軍二の舞になることを恐れて2個師団後衛として擁護させながら、東プロイセンから撤退したロシア軍の退却9月10日から14日及んだが、その間にもドイツ軍砲撃加えロシア第1軍死傷者捕虜145000人の兵を失った。こうして東プロイセン巡ってドイツ帝国ロシア帝国争われたタンネンベルクの戦いはドイツ軍大勝利終わった

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