タイタニック号の一等航海士
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「ウィリアム・マクマスター・マードック」の記事における「タイタニック号の一等航海士」の解説
1912年3月、タイタニック号乗務を命じられる。マードックは当初航海士長だったが、大型船舶の航海士長の経験がないことをスミス船長に憂慮され、オリンピック号の航海士長だったヘンリー・ティングル・ワイルドがこの船での航海士長として急遽転属することになり、マードックは一等航海士に降格された。 タイタニックのブリッジの指揮はスミス船長、ワイルド航海士長、マードック一等航海士、ライトラー二等航海士の4人の上級士官達が交代制で執った。 1912年4月14日午後11時40分にタイタニックが氷山に衝突した際にはマードックが当直だった。衝突直前、氷山を発見したマストの見張りからの電話で「正面に氷山」との報告を受けた六等航海士ジェームズ・ポール・ムーディはすぐにマードックに対してその言葉を繰り返して報告した。マードックは操舵員ロバート・ヒッチェンスに「Hard a starboard(取舵一杯)」と指示。さらに機関室用信号機を使って両エンジンに全速後進の指示を出した。結果、氷山への正面衝突は免れたものの、船体右舷と氷山が接触した。マードックはすぐにボイラー室と機関室の防水壁を閉じるスイッチを押し、ブリッジへ戻ってきたスミス船長に状況を報告した。 その後、トマス・アンドリューズの船室でタイタニックが沈没するであろう旨の状況説明を受けたスミス船長は、4月15日に入った午前0時5分頃に救命ボートの準備をするよう指示を出し、マードックは乗客を集める準備にかかった。さらに午後0時20分、スミス船長はマードックを右舷ボート、二等航海士ライトラーを左舷ボート担当に任じた。またスミス船長は「婦女子優先」を命じていたが、この命令をライトラーは徹底したのに対し、マードックは緩やかに適用した。たとえば主人と離れたがらない夫人などの場合、マードックは座席に余裕があれば夫と一緒に乗ることを許可することが多かった。それによって余計な遅れをなくそうという考えからだった。 ライトラーによれば、マードックは2時15分頃、折り畳み式のA号ボートを吊り柱に取り付けようと悪戦苦闘していたところ、船首が沈んで船尾が上がるにつれてボートデッキを上がってくる水に飲み込まれて命を落としたという(しかし、この場合左舷に居たライトラーから右舷に居たはずのマードックが死角になっているはずだった)。彼の遺体は発見されなかった。39歳没。
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