タイタニック乗船まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 05:22 UTC 版)
「チャールズ・ライトラー」の記事における「タイタニック乗船まで」の解説
1874年3月30日、フレデリック・ジェームズ・ライトラー (Frederick James Lightoller) とその妻サラ・ジェーン・ライトラー、旧姓ヴィドーズ (Sarah Jane Lightoller, née Widdows) の次男としてランカシャー・チョーリー(英語版)に生まれる。母サラはチャールズの誕生直後に猩紅熱で死去し、父フレデリックは1876年にマーガレット・バートン (Margaret Barton) と再婚した。チャールズが10歳の時、父フレデリックは家族を連れてニュージーランドへ移住した。 13歳の時の1888年2月から2500トンの4本マストバーク型帆船プリムローズ・ヒル号 (Primrose Hill) で働くようになった。続くホルト・ヒル号 (Holt Hill) での航海では南大西洋やインド洋などでマストが嵐で破壊されて難破する体験をした。 大型帆船アバコーン公爵号 (Duke of Abercorn) で英国へ帰国した後、再びプリムローズ・ヒル号で英領インド・カルカッタまで航海。カルカッタ滞在中に二等航海士(英語版)資格に合格した。その後大型帆船のナイト・オブ・セント・マイケル号 (Knight of St. Michael) の三等航海士となり、貨物の火事を経験、消火の際の功績で二等航海士に昇進した。 1895年にエルダー=デンプスタ―・アフリカン・ロイヤル・メール・サービス(英語版)に入社し、蒸気船でのキャリアを始める。3年にわたって西アフリカ海岸の航路で働いたが、マラリアを罹患して死にかけた。 1898年にはユーコンのゴールドラッシュに参加したが。1899年に無一文になってイングランドへ帰国。船長資格 (Master's Certificate) を取得し、グリーンシールズ・アンド・コウィー (Greenshields and Cowie) に入社してナイト・コンパニオン号 (Knight Companion) の三等航海士となった。 1900年1月にホワイト・スター・ラインに入社し、オーストラリア航路のメディック号(英語版)の四等航海士に就任。しかしボーア戦争中のシドニー港においてデニソン砦(英語版)にボーアの旗を掲げるという事件を起こしたため、北大西洋航路へ転属され、マジェスティック号やオーシャニック号(英語版)で一等航海士を務めた。
※この「タイタニック乗船まで」の解説は、「チャールズ・ライトラー」の解説の一部です。
「タイタニック乗船まで」を含む「チャールズ・ライトラー」の記事については、「チャールズ・ライトラー」の概要を参照ください。
- タイタニック乗船までのページへのリンク